【神の視点=三人称】
小説における三人称文体を「神視点」と呼ぶことがある。神のように、すべてを見通したように描くからであり、例えば次のような文章である。
「彼は一糸まとわぬ彼女の裸体に神々しさを感じた。彼女の方でも見られる気恥ずかしさの中に、恍惚とした、言葉にならない神聖な何かが湧き上がってくるのを感じた。」
「彼が感じたこと」と「彼女が感じたこと」を同時に描写しているのは、神のように両者の気持ちを見通していることになる。これは現代小説ではルール違反とも言われ、
「彼は一糸まとわぬ彼女の裸体に神々しさを感じた。彼女の方でも見られる気恥ずかしさの中に、恍惚とした、言葉にならない神聖な何かが湧き上がってくるようだった。」
などと書けば「彼女の感じた」ことを彼の視点で推測、判断していることになるので、視点のブレが防げることになる(もっと上手い書き方はいくらでもありますが)。
【神への疑い=作者への疑い】
昔は、三人称視点の小説がたくさんあった。それは書くという行為にも神聖さがあったからではないかと思う。
神話や民話が語られた時代まで遡るとすれば、著作権のような作者の存在感はなく、物語で描かれたキャラクターにもある種の神聖さがあった。
現代では神の存在が弱くなったように、物語の神聖さも弱くなった。
神を疑うように、三人称視点に対する言葉への疑いが起こるようになった。
その矛先は作者へと向く。
【作者の人間的理解力】
人間を生んだ創造神がいるとするなら、その神は、人間達が驕り神を信じなくなるとことまで、わかっていたのだろうか?
創るのと、コントロールすることは別である。
人類が創りだした科学や技術のために、自らに損害を被った例をあげようとしたら枚挙に暇がない。
作者が創り上げたキャラクターも、作者の想像を超えて、動き出すこともある。
一方で、作者が読者を驚かせようとしたり、面白味を創ろうとしたり、神の権限を利用して、物語に介入している場合もある。
「彼は一糸まとわぬ彼女の裸体に神々しさを感じた。彼女の方でも見られる気恥ずかしさの中に、恍惚とした、言葉にならない神聖な何かが湧き上がってくるようだった。彼は彼女を殺そうと思った。」
このような「彼」の動きを読者はどう思うだろうか?
「は? なんで?」と感じる人もいれば「その気持ち、わかるかも……」という人もいるかもしれない。
インタビュアーがいれば作者に「彼はどんな気持ちで、そう思ったのでしょうか?」と尋ねるかもしれない。
そのとき、作者がどう答えるか?
【作者の回答】
回答1「読者が驚くと思ったから」
これは、物語の神聖をぶち壊す回答でありインタビュアーは一番がっかりするかもしれない。「物語なんて所詮つくりものです。ムキにならないでください」と言われたような気持ちになる。こんな姿勢で人間を描こうとしていた作者であれば、軽薄さを疑われ、その作者の物語はもう読まれないかもしれない。一方で、人間がいかに軽薄を装うとしても無意識の反映はあるので、その発言は作者のブラフの場合も可能性もありえる。
回答2「彼は○○人格障害を抱えているからです」
心理学的な回答である。人間とはこういうものである、という回答。それは心理学や脳科学に基づいていれば一定説得力があるだろう。しかし、科学は本当に人間のすべてを解き明かしているだろうか? もっと言えば、その答えを学ぶために物語に価値があるだろうか? それは心理学をわかりやすく説明している小説でしかなくアート=文藝ではない。科学を知っている人には、読む価値のない物語である。
回答3「私にもわかりません」
作者が真摯にキャラクターと向き合っているうちに、自分でも何故かわからぬうちにキャラクターが動き出す。それを書き留めていったら、そういう結果になったのだということ。アートには無意識の世界へ向かって、言葉にできない世界へ没入していく部分がある。それは瞑想に似ている。その結果であれば、作者自身にも「わからない、けれど、こういう人間がいるのだと思う」ということになる。
【作者は神ではない。画家である】
芸術は人間を知るためのものである。人間を説明する説教ではない。現代人には神話に描かれた答えや、科学の説明では納得できないものがある。そのわからない人間=自分と向き合うために芸術をするのである。
作者は世界を創った創造主ではない。
対象を精緻に描きとろうとする画家であるべきである。写真では写すのではだめ。それは記録になってしまう。
だから文藝の本質は「描写」にあるのだ。
緋片イルカ2019/07/27
構成について初心者の方はこちら→初心者向けQ&A①「そもそも三幕構成って何?」
三幕構成の本についてはこちら→三幕構成の本を紹介(基本編)
文学(テーマ)についてはこちら→文学を考える1【文学とエンタメの違い】
文章表現についてはこちら→文章添削1「短文化」
キャラクター論についてはこちら→キャラクター概論1「キャラクターの構成要素」
三人称視点にもルール違反があるのは知りませんでした。
はじめの例文もとくに違和感なく、これは僕が近代日本文学に馴染みすぎたのかもしれません。
たしかに川端、谷崎といった文豪の作品はこうした視点の交錯が多く見られるように思います。
書くことの神聖さが薄れた原因は物語が現代の大量消費サイクルに呑み込まれ、読者の方が刹那的な楽しさのみを追い求め、細部までのこだわりは期待されなくなったためなのではないかと睨んでいます。
本屋には大抵◯◯シリーズでまとめた区画がありますし、だいたい店に入った最前列に配置されて、そこには有名無名問わず様々な作家さんが並んでいます。
面白いし大まかな設定は同じだから安心感がある、それは分かりますが、一からキャラ定義を覚えたくないという姿勢が裏返しとしてあるように感じます。
個人的にはこの傾向はチョットどうなのかなと思わないでもないです。
キャラの動きについて(ちょっと反対意見です…)
よくキャラが勝手に動き出したと言う作家さん監督さんがいらっしゃいますが、そうは言ってもインタビューやコメンタリー等を見るとやはりシーンごとの台詞、カメラワーク、演出全て熟考して作られているんだなと感心します。
そういう意味では心理学的には〜の部分まで掘り下げて説明できる作者さんは信頼できる方なのではないか、とも思います。
エヴァの庵野監督・摩砂雪監督は絵コンテの中で色彩学的な見地から色彩指示を出されている箇所があります。
先ほどの話に戻ると、読者の方でもそこまで徹底的に読み取ろうとする姿勢は持っておきたいなぁと思う次第です。