小説『赤く見えた月』(2590字)

 ジンジャーエールとKindleを持って風呂に入る。
 ガラスのコップを持ち込んで割ってしまったのが恐怖だったので、今はプラスチックのにしている。数年前まで甥っ子が来たときに使っていたドキンちゃんのイラストが描かれているやつ。ジュースもそのままだと甘いのでわざと氷を一杯まで入れて溶けて薄まるようにする。
 関東もようやく梅雨が明けたというが、身体が夏に対応しきれていないので、運動したり、風呂でじっくり温まって汗を出すといいと、さっき見たニュースで専門家のだれそれが言っていた。それだけでなく連日の冷房で内臓が冷えていたので芯から温めたかった。それで風呂にあれこれ持ち込んだのだ。
 Kindleは読んでいるマンガシリーズの次巻をダウンロードしてしまおうかと思ったが、この前、落として読み終えてない日本語についての本を読んでからにしようと思って、その本の一章だけ読む。一日一章読んでも、まだ二週間かかりそうだ。内容は、なるほど、勉強になるが教科書じみていて面白味がなくて読みたいとは思えない。作者は学校の国語の先生をしていた人と、文中にでてきて、なるほど。
 もう少し読みたくて、少しずつ読み進めている英語の本を読む。こちらは英語の長文みたいだが内容の方に興味があるので、正反対だなと思う。
 風呂から出て、氷の残っていたドキンちゃんに二杯目のジンジャーエールを入れて、部屋に戻る。すぐにクーラーをつける。
 タイマー六○分をセットして、本題の小説を書き始める。
 ある動画についての描写をするシーンで、再生しながら創作も入れつつ書いていく。そこそこ納得のいくシーンが描けて気持ちいい。どうせ後で直すことにはなるのだが、ともかくよくできた。
 途中でタイマーがなっていて、もう六〇分回していたのが、残り一五分だった。三〇分を一セットとする自分ルールがあるので、もう一五分書いてしまいたかった。キリのいいシーンで書き止めると、逆に翌日、続けづらいときもあるし。
 散歩してから書こう。窓を開けてみたら、それほど暑くない。
 パジャマを着ていたのでショートパンツとシャツ――名前がでてこない、なんだっけ、一般的な名前なシャツだがど忘れ。ともかく楽ないつもの散歩スタイルに着替えて出た。
 コースはいつもの公園。ほどよく涼しくて、気持ちいい。
 彼の人と散歩したいと思う。
 黄色い葉を見た翌日にも公園に来た。昼間で、親子連れがいっぱいで、寝不足だったので辟易して、コースを変えようと思ったが、昨日見た黄色い葉はどうなったかと思って、そこだけ見にいったら、落ちていた。
 明るい陽の下で見ると、黒い半点がいくつもあって、やはり健康な葉ではなかったようだ。他にも二枚ほど同じような葉があって、まだ枝に下がっていた。
 それで、そのことを小説にして、「連絡のこない彼の人」が死んでしまったという話も浮かんだが、創り過ぎたかんじが気に食わず、それならただ淡々と描写するのも良いと思ったが、本題の小説に追われて書かないままになっていた。日記風の描写の中にストーリーエンジンを数行だけ投げ込んでみると、どうなるかという試みをしてみたくて書いたもので、わりと私小説として上手くいきそうな手法だとも感じるものがあったが、ともかく今は本題の方に向かいたくて、書かないままになっていた。
 公園までの道で、じりじりじりと虫が鳴って驚いた。コンクリートでひっくり帰ったアブラゼミだった。まだ鳴き声を聞いてなかったが、勢い込んで出てきたのだろう。
 公園の入口にはぬこがいた。通り道になっている中央にべたりと座ってこちらを見ている。昼間であれば、ぜったいにそんなところに寝転んではいられない。胴体は茶で、足は白でミルクティみたいにおいしそうな色だった。
 前にも、夜に歩いたら、道路の真ん中に堂々と鎮座していたことがあった。ぬこは案外、ど真ん中に居座るのが好きなのだろうか。けっしてマナーの悪い人間ではなくとも、ガラガラの電車だと、ドテっと座りたくなるが、それに似ている。
 ぬこは私が近づくと、前肩を起こして警戒した。「え、入ってくんのかい」という顔をしていた。威嚇しないように気持ち歩調を緩めて通過したら、またリラックスしていた。
 風呂に入った後だったから、汗は掻きたくなかったが、蜘蛛の糸が引っ掛かる。夜の散歩をしない人は知らないかもしれないが、道のど真ん中などに一本だけ引っ掛かってくることがあるのだ。
 しんとして誰もいない。いつも以上に、静かな気がする。
 本題の小説で死にまつわるシーンを書いていたので、その皮膚感覚が残っていたのかもしれない。
 ふと見上げると月が赤かった。三日月のように細く鋭い弧が赤く光って、空に開いた切り傷みたいだった。
 狂おしくて綺麗だった。どんなものでも月は好きだ。
 スマートフォンを持ってこなかったことを悔やんで、とりに戻った。
 改めて向かう途中、ぬこがどこかに歩いて行くので見送りながら、公園へ行く。
 と思ったら、さっきのぬこはまだ入口に居た。別のだったらしい。
「またお前か」と今度は驚く様子もなく通してくれた。
 月の見える角度まで歩いて、カメラを構える。綺麗にとれないのはいつものことだ。それでも撮ることで撮った記録が残り、それを見ると記憶が蘇るから撮っておきたいのだ。
 フォーカスが合うはずもなく、自動で合わせては外れ、また合わせることをくりかえしている。ズームをして構図だけ気にしてパシャ。歩いて移動してパシャ。
 あの細長いかんじだけ映ったらいいなと思うが、缶詰の蜜柑みたいなぷっくりした形になってしまう。
 Instagramにあげるためにフィルターを選ぶ。月が一番赤く見える加工がいいと思って、ふと気付く。

黄色いのである。見上げて本物を見ると、やはり黄色い。ほんの十数分前まで赤かった月が黄色くなっている。
 ふーむ……。
 細長い月をなんとなく三日月と呼んでしまうが、ググってみたら今日は月齢二十六.三だった。三日後には新月になる、三日月は新月から三日後のプラス三日の月だから、今日のはむしろマイナス三日の月だ。ちなみに今年の梅雨明けは例年の三〇日遅れだとか。
 そりゃ月も赤くなるわね。
 次に彼の人に会えたら、今夜の話をしよう。
 部屋に戻って、冷房をつける。
 ショートパンツとポロシャツを脱いで、パジャマを着る前に、シャワーを浴びようか、と思いつつ、残り一四分の代わりにこれを書いて、今日はおわりとする。
(了)

緋片イルカ 2019/07/30

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『小説『赤く見えた月』(2590字)』へのコメント

  1. 名前:アーリオオーリオ 投稿日:2023/04/12(水) 11:52:08 ID:9ec63fe2a 返信

    恋人(たぶん)を「彼の人」とさすのが独特でくせがある人っぽくていいですね。ぬこ。ネコチャンは正義。

  2. 名前:緋片 イルカ 投稿日:2023/04/12(水) 13:53:28 ID:87f7dc0cc 返信

    感想ありがとうございます。こんなの書いたこともアップしてたこともすっかり忘れてました。内容呼んでうっすら思い出しました。「彼の人」は「あのひと」を変換したら、なったのをそのまま書いた記憶があります。90%ぐらいが実話なので、くせがある人は僕ですね笑
    ぬこちゃんは普段呼ばないのに、この時は呼びたい気分だったんですね。拙くても、そのときの気持ちを形にしておくのはいいものだなと思いました。