物語における偶然性と奇跡について(文学#67)
偶然は、ほんとうは偶然ではないのだというアークを描ければ、観客はそこに奇跡をみるのかもしれない。
偶然は、ほんとうは偶然ではないのだというアークを描ければ、観客はそこに奇跡をみるのかもしれない。
これは僕(イルカ)が『聴こえる』に載せた文章です。「意識の海」については文学として今後、追究していくつもりなので、ここにも転載しておきます。
文学フリマのような場所へ行くのは、プロの商業的な手垢にまみれた物語ではなく、作者の魂のこもった文学に出逢いたいから。
アーネスト・ヘミングウェイは自分の筆力をもってすれば小説1冊文の力をたった6語に込められると豪語した。その6語とは……
人類的価値のある物語というものがある。多くの人にはわからない。理解もできない。しかし、そういう物語は確かに存在する。気づいてしまった作家は、書かなくてはならないのだと思う。それは使命とか宿命のようなものだ。
真に文学的なものとは、構成の領域で言えばコズモゴニックアークを辿り、表現の領域で言えば剥離された言葉を持つものです。
山は登り尽くされている。誰も登ったことのない山など、残されていない。それでも新しい登り方はある。それが「小説の構想」ではないか。
「対話」は「きちんと聴くこと」と「きちんと話すこと」。
命名することで、何となく安心したり、それについて思考できるようになったりする。この対義語として、今回考えるのが「剥離」という言葉である。意味を限定するのが、言葉の「固着」であれば、意味をあやふやにして再定義を促すのが「剥離」である。
どんなジャンルであれ、新しいものを学ぶとき、まずは学校のような教育機関を使うのは、とても便利だと思います。