『リベンジ・マッチ』(三幕構成分析#13)

がっつり分析は三幕構成に関する基礎的な理解がある人向けに解説しています。専門用語も知っている前提で書いています。三幕構成について初心者の方はどうぞこちらからご覧ください。

『リベンジ・マッチ』(原題: Grudge Match)は、ピーター・シーガル監督によるスポーツ・コメディ映画である。本作において、ロバート・デ・ニーロとシルヴェスター・スタローンは最後の勝負のためにリングに上がる老齢のボクサーを演じている。

あらすじ
引退したボクサーであるヘンリー・シャープとビリー・マクドネンとの間には30年来の遺恨があった。それは2人が戦うタイトルマッチの前夜にヘンリーが引退してしまったことである。そして今、2人は再戦の機会を得て、遺恨を晴らそうとするが…。

評価
本作には否定的な意見が寄せられた。映画批評サイトのRotten Tomatoesには69件のレビューがあり、批評家支持率は20%、平均点は10点満点中4.4点となっている。批評家の意見を総括すると「『リベンジ・マッチ』には笑える部分もあるにはあるが、とりとめのない話に過ぎない。豪華キャストも陳腐な脚本の前では何もできていない。」となる。

また、Metacriticには、27件のレビューがあり、平均点は100点満点中37点となっている。

第34回ゴールデンラズベリー賞において、シルヴェスター・スタローンが本作と『大脱出』、『バレット』の3作の演技によって最低主演男優賞にノミネートされたが、『アフター・アース』の主演俳優ジェイデン・スミスに敗れた。(Wikipediaより)

【コントラストプロットの難しさ】
コントラストプロットというのは明確に2人の主人公がいて、そろぞれがアークを持っているプロットをいいます(群像劇とは違います)。
このプロットを機能させるには、何よりも二人のスターが必要です。
『ディパーテッド』ではレオナルド・ディカプリオとマット・デイモン。
アメリカン・ギャングスター』、デンゼル・ワシントンとラッセル・クロウ。
『ヒート』ではアル・パチーノとロバート・デ・ニーロ。
どれも主役を張る俳優二人が主人公となっています。

上にあげた三作品では、どれも警察と犯罪者という設定で一つのストーリーを表と裏から見る。二人の主人公がしっかりとキャラクターアークをもっていてバランスでいえば5:5になります。これがコントラストプロットの意義です。
「追う者」と「追われる者」をクロスカットしながら展開していく『逃亡者』のような作品では、あくまで逃げる側のハリソン・フォードが主人公であって、刑事役のトミー・リー・ジョーンズは魅力的な役柄ですが、あくまでハリソン・フォードを追うだけの脇役です。両者は、キャラクターアークの点で違いが明確です。
主人公のハリソン・フォードはアークに合わせて作品自体が展開されますが、トミー・リー・ジョーンズは途中から出てきてハリソン・フォードのアークに参加しているだけです。バランスでいえば6:4や、7:3など主人公の比重が大きいのです。
同様のことが、『テルマ&ルイーズ』のハーヴェイ・カイテルや、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』のトム・ハンクスにも言えます。ちなみにこの三作品は「逃亡プロット」として同型です。

「コントラストプロット」にするからには、二人の主人公のアークをしっかりと描かなくてはなりません。そうしなければ、どちらか一人が主人公になってしまいます。そこには「主人公を二人にする意義」が必要です。ただスターが二人出るからといってアークを2本にすればいいというものではありません。それなら、それぞれを役者を主人公にした映画を2本つくればいいのです。わざわざ1つの物語に、主人公を二人に据えて物語を展開する意義が必要なのです。刑事と犯罪者という善悪を対比させるのは、そのわかりやすい例です。たとえば『アメリカン・ギャングスター』では、犯罪者であるデンゼル・ワシントンの方は幸せな家庭を築き、刑事であるラッセル・クロウの方が家族仲は悪くなって報われないシーンがあります。

また、2本のキャラクターアークを入れることで尺が延びます。
『ディパーテッド』150分
『アメリカン・ギャングスター』157分(劇場公開版)/175分(エクステンデッド・バージョン)
『ヒート』171分
ここにはビートの重複という問題もおきます。これが構成上の難しさを生みます。詳しくはあとのビート分析の方で解説します。

「コントラスプロット」というのは、このようなものであるという特徴を抑えた上で、今回の『リベンジ・マッチ』について考えていきます。

ピッチは抜群】
『レイジング・ブル』のロバート・デ・ニーロ、『ロッキー』シリーズのシルヴェスター・スタローン。この二人がボクシングで対戦する。これが実現できるなら、それだけで企画書は通るでしょう。それぐらいに文句なしのスター二人です。

観客は『レイジング・ブル』のようなデニーロの肉体改造や、『ロッキー』のような感動を期待します。しかし、監督はピーター・シーガルというコメディ畑の監督です。ここに、この作品の根本的なズレがあります。
ドラマではなくコメディとしてつくられているのです。批評家の印象が悪いのは、このあたりの「過去の名作を汚した」が要因となっているのではないかなと感じます。後述しますが、この構成上にもこのズレが現れています。

『リベンジ・マッチ』113分
尺もずいぶんと短いです。途中、ストーリーが飛んでる印象のシーンがありましたので、テンポよくなるように相当な長さをカットされたのでしょう。ただでさえ長くなるコントラストプロットでありながらビートが崩れてしまっています。そのため、このプロットで重要な「主人公を二人にする意義」が物語上に見えません。

以上の問題を、ビートの観点から分析していきます。

※以下、ネタバレ含みます。

【ビートシート】

Image1「オープニングイメージ」:「デニーロとスタローンの過去のニュース映像」完全にドラマとしてのオープニングシーンになってしまっていてコメディ映画であることを印象づけることに失敗している。これは「ジャンルのセットアップ」の失敗である。デニーロが「陰きん薬のCMにでた」というギャグがあるが、ボクシング映像のインパクトのが強すぎる。ニュース映像の説得力は強いので、情けない現代の二人の現状から入って「実は昔は強かった……」とか「あの頃はよかった」という使い方もできたはず。安易に説明のためにニュースを使っているために、大失敗を犯している。主人公二人の経緯の途中プロモーターの息子ダンテ・スレート・Jr. (ケヴィン・ハート)の映像が入るのもジャマにしかみえない。

CC「主人公のセットアップ」:「デニーロ:レストランでトークショー。スタローン:造船所での仕事。」どちらも笑っていたり和やかで問題を抱えているように見えない。幸せそうに見える。あとで出てくる「失明」の原因になるようなシーンも見せてセットアップしておくべき。アクト3で二人が周りの反対などを押し切って維持でもボクシングで対戦するようにもっていくには、一勝一敗のままになってることへの心残りを強烈にセットアップするべき。「あいつとケリをつけるまでは死んでも死に切れない」というような。それがキャラクターコアともなる。設定上は、デニーロは金に余裕があり、スタローンは金に困っているようだが、そのあたりも設定以上には見えない。対比させる映像もなくコントラストが弱い。

Catalyst「カタリスト」:「ダンテJrがゲーム化の話をスタローンにもってくる」了承する理由がお金だけ。ドラマとして描くのであれば、断固として拒絶するようなところだが、お金を理由に引き受けているので、その後のボクシングの試合の動機もお金のように見えてしまう。またお金の困り具合もルイス・“稲妻”・コンロン(アラン・アーキン)への友情のためというのは、いい人には見えても、動機としてはやや弱い。アラン・アーキンに薬の話などして重大な病気のようなフリはあるが、セリフでの掛け合いで紛れてしまい、重要度が弱まっている。他にも自分の家を追い出されるとか借金のせいで家族にも会えないとか「お金のため」でも、それなりに共感できる切羽つまった状況にするべき。えてして共感できない。これは「主人公のセットアップ」のビートがが機能してないことを引きづっている。このあたりまではスタローンだけが主人公として描かれていて、デニーロにはこのビートがないため、デニーロがどういう気持ちでこのゲームの仕事を引き受けたのかはわからない。

Debate「ディベート」:「ゲームの撮影現場で喧嘩」緑色の全身タイツで喧嘩するのはコメディとしては面白いがドラマと思って見ている人には、違和感大だろう。ここでも主人公のセットアップのビートがあいまいなことが原因で、どの程度、相手を嫌っているのかわからない。後で出てくるスタローンがボクシングをやめた理由は情報としてカタリスト以前にセットアップしておくべきだった。そうすればスタローンがデニーロを嫌う理由に視聴者が共感できた。共感がないまま、奇妙な恰好で喧嘩しているだけなので、ふたりは案外中が良いのか?とも見える。観客も、ちょうどyoutubeを見ている若者達の気分になってしまう。コンフリクトプロットとしては対比や対立、緊張感が重要なので、この時点でプロットとしての機能も失ってしまっている。

Death「デス」:まったく機能していない。デスはアクト2に入るための加速装置のようなビート。この勢いでアクト2に入るのだが、ゲーム撮影現場で喧嘩したあとスタローンにどういう心の変化があったのか不明のまま試合することを了承している。直前には「スタローンの同僚がクビになる」シーンがあるが、スタローン自身がクビになったシーンはない(たぶんクビになっている)。お金をボクシングの試合をする動機にするのであれば、もっと追いつめて、それ以外には方法はないという「死」までおいつめなければデスとしては機能しない。「試合がなくなって落ち込んでるデニーロ」のシーンも落ち込みようが浅く「死」になっていない。試合がきまったときの、悦び様がおおげさに見える。このあたりもデニーロの「主人公のセットアップ」が不十分なことに起因する。

PP1「プロットポイント1(PP1)」:「記者会見」。これ以降、二人はボクシングの試合をするためトレーニングとプロモーションをしていくことになる。このシーンの時間は19分、全体の16%。この数字だけでもプロットポイント1としてはかなり早い。PP1が早いということは、セットアップが不十分だという証拠ともいえる。ニュース映像や台詞で説明しただけで、アクト1を終えてしまっているので主人公達に共感できない。記者会見にいる記者達のような気分になっている。ダンテJrの「老人に経緯を払え」といったセリフは言葉はいいセリフでテーマのように見えなくもないが、ストーリーと噛み合っていないので、言葉だけが浮いている。どこかの映画で聞いたことあるようなセリフ。ダンテJrという軽薄なキャラに言わせているのもマイナス。

Battle「バトル」:「チケットを売るためのプロモーション」。カジノやスカイダイビングなどの喧嘩しながらの営業活動。実質、これを動かしているのがダンテJrなのでプロット上は出しゃばり過ぎている。デニーロとスタローンにとっては受け身の「バディプロット」のようになっている。バディプロットは友情を深めるプロットで、アクト3を見れば、そういった気配も感じなくもないが、アクト1からの流れをみるとバディプロットとしても機能していない。中途半端。また、視聴が観たいものにも応えていない。コントラストプロットであれば、二人が次に会うのはアクト3のリングの上でいい。それぞれが背負ったものをかけて、真剣にトレーニングしてきたあとにリングで戦う。そういうものがドラマには必要だった。上に例であげた犯罪者・刑事の「コントラストプロット」の作品では、いかに二人の主人公の絡みが少ないかも参照。それこそがコントラストプロットのあり方。

Pinch1「ピンチ1」:「スタローン:サリー(キム・ベイシンガー)が会いに来る。デニーロ:息子と孫が会いにくる」試合を通して、それぞれが人間関係の変化が起きていくサブプロット。二人をつなぐサリーという女性の設定はギリギリのライン。コメディとしてはありだが、コントラストプロットとしてはご都合的にもみえる。

MP「ミッドポイント」:あまり機能していない。演出的には「総合格闘技の試合でのプロモーション」(55分49%)。リングであるし映像的には盛り上げているところ。ここMPとするのであれば、アクト2の主人公達の目的が「プロモーションをして盛り上げる」ということになってしまう。ストーリー的なMPはちょっと後の「会場が大きくなったという知らせ」(68分60%)でどっちにしろ大差ない。ログライン的に言うと「決着のつかなかった二人のボクサーが30年後、試合で一山儲けるために営業して……」というストーリーになってしまう。読者の観たいものとのズレも大きい。MPではサブプロットの絡みも起きるが、シーンとしての絡みはないが、このシーンの後「スタローンはサリーに電話する」あるいは「レストランでのサリーとの食事」。「デニーロは孫と一緒に過ごす」。一つ一つのシーンは悪くなくとも、場当たり的で構成上の盛りあがりに欠ける。

Fall start「フォール」:「スタローン:交通事故。デニーロ:孫が運転して捕まる」どちらも車関係で対比しているように見えなくもないが……ここまででテーマの対比も見えてないので、ただ、それだけというかんじもする。

Pinch2「ディフィート or ピンチ2」:「スタローン:失明がわかり試合中止。デニーロ:息子に見限られる」どちらも、フォールからの流れで関係が崩れる。

PP2(AisL)「オールイズロスト or プロットポイント2」:「アラン・アーキンがダンテJrに試合中止をつげる」(76分、全体の67%)。試合をやるというPP1の会見からアクト2が始まり、やっぱり中止になるというPP2は構成上は対になっているが、ここでもやはり、主人公でもないダンテJrのプロットのようになってしまっている。二人をつなぐ都合のいいキャラになっているので、こういう現象が起きていると思われる。

DN「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」:「落ち込むデニーロ」試合がなくなったという「オールイズロスト」に対して、別のシーンの別の理由でデニーロが落ち込んでいる。この繋ぎ方は、この映画の構成上で一番良いところ。群像劇としても使えるテクニック。コントラストプロットは、二人の主人公のビートをもれなく描いてしまうと、同じようなシーンが連続で起きることになる。あるいは一つのビートのシーンが長くなる。これを解決する方法として、ビートを他のキャラクターで機能させるというテクニックがある。プロットポイントのように他のキャラクターのシーンでやってはいけないビートもあるが、ダーク・ナイト・オブザソウルのようなあってもなくてもいいようなビートは、スムーズに流すことで、テンポがよくなる。デニーロは電話にでて「いい知らせならいいが、それ以外はお断りだ」というセリフを言ったところでカットされていて、デニーロのリアクションも次のスタローンのシーンに引き継いでいるところもい。

BB(TP2)「ターニングポイント2」:「デニーロが試合をしろと言いに来る」デニーロが怒っている理由「俺にはもう何もない」などが、セットアップ不足のために共感できない。シーン的にはいかにもなターニングポイント2なシーンだが、物語上、スタローンが奮い立たされるシーンにも見えない。ターニングポイント2が機能していないのは、構成上、致命的。このシーンの後、スタローンが試合を決意するために「レストランで元同僚に会う」「ベルトを眺める」という、スタローン側のダーク・ナイト・オブザソウルが入るが、雰囲気だけで、スタローンの心の変化は不明。

ビッグバトル「二人の試合」ここは企画段階で決まっていたようなもの。どっちが勝つのかというのはコントラストプロットのためにわからない面白さはある。全体はややスタローン寄りだが「ロッキーの」のように負ける可能性もありえる。フリはないが、試合中の死亡事故とかもありえる。とりあえず試合結果には視聴者は興味をもてる。あるい意味、このアクト3に試合をするというのは、それだけで強引に盛り上げる力がある。途中で、スタローンの失明のことをデニーロが知って正面で戦うというツイストが入る。倒れた相手を起こしたり、友情的にはいいシーンだが、ここまでで二人の友情やくされ縁といったことが、深められた映画ではないので、肩すかしをくらったような印象も受ける。

image2「ファイナルイメージ」:リング上でのアラン・アーキンのボケや、テレビを買ったその後などもあるが、ビートのファイナルイメージとして機能しているものはない。

●感想
熱いボクシング映画を期待した人には怒りに似た不満があるかもしれませんが、コメディ映画と思ってみたら、それなりに楽しめる映画だと思います。アカデミークラスの役者の演技力によるものでしょうが。構成のサンプルとしては、「コントラストプロット」の映画は少なく、ここまで失敗しているのも珍しいので、考える題材にはなると思って記事にしました。

緋片イルカ 2019/12/08

●作品紹介

コントラストプロットのかなり特殊な例として「悲劇」と「喜劇」を対比している「メリンダとメリンダ」があります。

ほっこりトーク74では『リベンジ・マッチ』の話しています。

三幕構成の分析に基づく読書会も開催しています。興味のある方のご参加お待ちしております。

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構成について初心者の方はこちら→初心者向けQ&A①「そもそも三幕構成って何?」

三幕構成の本についてはこちら→三幕構成の本を紹介(基本編)

キャラクター論についてはこちら→キャラクター分析1「アンパンマン」

文章表現についてはこちら→文章添削1「短文化」

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