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『モンスターズ・ユニバーシティ』(以降MU)のサリーのキャラクターメイクは明らかに失敗している。
『モンスターズ・インク』(以降MI)では、心優しい大らかなキャラクターで、ブーへの慈愛にみちていて、魅力的で主人公にふさわしい人物だった。
それが、大学時代であるMUでは、いけ好かないチャラいキャラクターとして描かれている。
昔はチャラかったサリーが、マイクとの関係を通して親友になっていくという過程を描きたかったのはもちろん、わかる。
MIで魅力的だったキャラクターを嫌な奴にして、意外性を狙ったのかもしれないが、前作が好きな人ほど抵抗感を示したはず。
企画としての失敗でもあるが、それ以上に脚本として失敗している。
それはどう見ても、二作品のサリーが同じキャラクターに見えないからである。
キャラクター論は、人間観でもあるので、どうしても主観的になる。
MUサリーが魅力的で好きという人には以下の文章は通じないと思う(そんな人がいれば是非、意見を聞いてみたいが)。
キャラクターを考える時は、表面的な性格と、深層的な性格を考える。
「キャラクターコア」とは深層の性格の方である。
MUサリーが、表面的な性格として「チャラい、いけ好かない、嫌なヤツ」だとしても、深層としての「キャラクターコア」ではMIと一致していなければならない。
その感覚が、ライターにないため、MU内のサリーは「人が変わったように」(まさに言葉通り)なっている。
この感覚は、物語のテクニックとしては伝えづらい。
「キャラクターコア」が一致するように描ければ「嫌な奴」から「大らかな慈愛に満ちた魅力的案主人公」に変化させることはできる。
その場合、「何が彼を変えたのか?」という問いかけが付きまとう。MU内で描かれていたサリーのキャラクターアークはそれに見合っているとはいえない。
人間の変化は、理屈の問題ではない。
プロット上は「ズルをしたことを反省して」→「マイクを助けにいく」といったシーンがあるが、サリーの心の機微を追えるようなシーンにはなっていない(つまりアークが描かれていない)。
「本当はこうなんだろう」と推測することはできる。
ただしシーンとして描かれていないなら断定はできない。
ライターが断定されたくなくて意図的に描いていないのでなければ、「描かれていない=見落としている」のである。
自分がライターで、そういった心情への意識があれば、必ずシーンにしている。
緋片イルカ 2022.10.10