「意識の海」について(文学#66)

これは僕(イルカ)が『聴こえる』に載せた文章です。「意識の海」については文学として今後も追究していくつもりなので、ここにも転載しておきます。掌編『小川の底』は『聴こえる』のみとしますが、同コンセプトの作品をサイトでもアップしていく予定です。

以下、本文

「意識の海」について

 「意識の流れ」という文学用語がある。僕は研究者ではない。説明はできないので広辞苑を引いておく。

いしき‐の‐ながれ【意識の流れ】
(stream of consciousness)文学で、常に変化する意識を動的な流れとして描写する手法。ジョイス・V.ウルフなどに見られる。

 ジョイスやウルフはともかく、「常に変化する意識を動的な流れとして描写する」という部分に文学的な意義を見出している。そういった文体でしか描けないものがあると感じている。本誌に載せた『小川の底』という掌編は、その取り組みに初めて挑戦したときの作品である。その後、何作か試行錯誤しながら書いているが、少しずつ掴めてきているものがある。僕にとって、意識の流れは「言葉にできないものを言葉にするための手法」である。
 多くの人が「言葉は意味を持っている」と思っている。学校教育では、言葉の「正しい」意味を学ぶ。読み方を覚えたり漢字の練習をしたりして学習する。わからない言葉は辞書を引くように言われ、そこには「正しい」答えのように意味が書かれている。意味にそぐわない使い方をすれば間違っていると言われ、その間違いが広まれば、言葉が乱れていると言われたりする。しかし、言葉そのものが正しい意味を持っているなど思い込みである。世代や地域が違えば齟齬が生まれるし、外国へ行けば言わずもがな。言葉というのは、あくまで共通理解がある者同士でしか通じない音に過ぎない。この意味で言えばシジュウカラのような鳥は言語を持っているといえるが、ここでは問わない。言葉が人類の進化にどういう役割を果たしてきたかなども専門家の素晴らしい知見がある。僕が語りたいのは「文学の言葉」についてである。それは辞書に載っている「正しい」言葉を連ねることではない。読者をワクワクさせる物語を提供するエンターテインメントでもない。文学とは「人間が存在意義を確認するための物語」である。
 人には、自分を自分だと認識している個人としての意識がある。その個人が、所属している家族や会社、宗教、文化といった社会への帰属意識がある。さらに広げれば、国家や、国際的な地域(アジアとか)、太陽系の地球に住んでいるといった大きい枠組みに自分が含まれている認識がある。それぞれのレベル(階層)での「自分」を確認し、生きることに意味を見出そうとしている。やがて訪れる「死」という未知なる出来事に対して向き合うための物語、それこそが文学である。
 個人や社会といったレベルでの問題をテーマにした優れた文学作品がたくさんある。だが、それらの問題の根本にあるのは「人間とは何か?」という永遠の問いかけである。その答えは言葉にすることができない。言葉にはできないが答えはある。体験的に、確かに存在する。触れた瞬間に割れてしまうシャボン玉のように、言葉にした瞬間に本質は壊れてしまい、虹色の輝きは失われてしまう。だけれど、それは確かに存在する。その永遠のシャボン玉を、言葉を通して読者に疑似体験させる物語こそ、僕が求める文学である(コズモゴニックアークと呼んでいる)。永遠の虹は、白か黒かといった論理では説明できない。それは白でもあり黒でもある。あるいは白でも黒でもない。二項対立を超えている。グレーではないが、やはり白でもあり、黒でもある。矛盾を孕みつつ成立している。そういう非論理的なものだから言葉で説明して到達できるものではない。だから、「言葉にならないものを言葉にするため」に意識の流れそのものを描きとる文体が必要なのである。
 人間の深層意識では自己と他者に境界はない。自分と世界も同一といえる。永遠の虹を見たことがある人であれば、それは歴然たる事実として感じられるが、その体験のない人にはうさんくさい宗教心にすら見えるだろう。体験のない人を言葉で説得することはできない。物語によって体験させるしかない。そのとき、人は同じ小川を泳ぐ小魚のようなものだと知る。その先には大きな海が待ちかまえていることも知る。意識の海に到達したとき、人は絶対的な己の存在意義を確認することができる。それを描くことが文学の最大にして唯一の役割である。そのための手法として「意識の流れ」という文体に可能性を感じている。(了)


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photo by さやか

緋片イルカ 2022.11.16

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