アウフヘーベンあるいは作家の器について(文学#91)

まえおき

「アウフヘーベン」という言葉を初めて知ったのは高校生の倫理の教科書だと思う。

広辞苑を引用してみる。

アウフヘーベン【Aufheben ドイツ】
〔哲〕止揚。揚棄(ようき)。ヘーゲル哲学(弁証法)の用語。(広辞苑 第七版)

し‐よう【止揚】 ‥ヤウ
〔哲〕(Aufheben ドイツ 「廃棄」「高めること」「保存すること」の意)ヘーゲルの用語。弁証法的発展では、事象は低い段階の否定を通じて高い段階へ進むが、高い段階のうちに低い段階の実質が保存されること。矛盾する諸契機の発展的統合。揚棄(ようき)。(広辞苑 第七版)

哲学的な定義は、いま読んでもイマイチわからない。

高校生のときに理解したのは「AとBという相反するものが対立する中で、より高い次元のCになる」と、こんな程度。

マンガなんかで難しめの言葉が出てくると思春期の子供が深いと言ったり、どこかの政治家が使ったりすると綺麗事に聴こえたり、ヘーゲル哲学を専門にされている方々はともかく、一般の多くの人の理解は僕とさして変わらないのではないかと思う。

『精神現象学』を読破した人が、どれくらいいるのか。僕は読んでいない。

読んだ人はマウントとろうと、ああだこうだと言うかもしれないけれど、そんな態度はヘーゲルの権威に縋っているだけで「いま」を生きている我々にとって大切なのは、現代社会や自分の身近な問題解決に、どれだけヒントになるのかということ。

権威で屈服させようとする人や、知識を嚙み砕いて説明できない人ほど、難しい言葉を使いたがるものなのかもしれない。

具体的に問題解決を考える

夫婦やカップルの間で起きるささやかな対立として考えてみる。

なお男女でなくて、同性愛でも友人でも親子でも何でもいいのだが、便宜上、男女とする。一般的なクリシェをもちいるが他意はない。

次の日曜日、男は「池袋へ行きたい」、女は「新宿へ行きたい」という対立が起きたとする(物語論との関連は後述するが、これはすなわちwantである)

男が強硬の態度に出たり、女が不機嫌になったりして、どちらかの言い分が通れば勝利といえる(これはすなわち物語の結論、ラストである)。

男が勝利して「池袋」、あるいは女が勝利して「新宿」へ行くということ。

なんだかなと思う人もいるかもしれないが、実際の個人間では、こんなことはよくあるだろう。

安易にアウフヘーベンをするなら「午前中に池袋へ行ってから、午後から新宿へ行く」とか、実は男は「池袋で映画が見たい」、女は「新宿で買い物がしたい」という理由で「渋谷」に行けば両者の目的が達成できるということもあるかもしれない。

こんな解決ができれば、平和的で、両者とも不満が残らない良い解決だと思う。

現実の問題は、こんな簡単にはいかない。だから政治家がアウフヘーベンなんて言うと綺麗事に聴こえる。

テレビ番組の解説にあった知識だが、ヘーゲルも何でも解決できるとは書いていないとか。その真偽は知らないが、そんなこと大人になればわかる。

高校生ぐらい青いと、本から得た新しい知識で世の中の問題は解決できると思ってしまうが(もちろん僕のこと)、そんな風に解決できるようなものは、すでに解決済みだろう。

所詮、話すだけで分かり合えるような問題は、コミュニケーション不足に過ぎない。

多くの、本当の問題は、話しても解決しないような問題ばかり。

男が池袋へ行きたい理由は「何が何でも行きたい。理由などない(言いたくない)」かもしれないし、女が対話をしようとしても、こんな態度では解決できない。

女が我慢して「じゃあ池袋へ行くよ」と言うと「そんな風に自分に意見を曲げるのは良くない」などと言い出す輩もいるかもしれない。

男女がお互いに自立していて、日曜日は「男は池袋、女は新宿へ行く」にするのも、いいだろう。

次の週には、また一緒に出かけるような間柄であれば関係は良好だろうが、翌週も翌々週も別行動していて、ある日、どちらかに新しい出会いがあったりしたら、この男女の関係性の意義がなくなっていく。

これは「分断」というほどでもない、よくある男女の擦れ違い、出会いと別れ。まあ、大人になれば、恋愛に限らずこういうことはあると知っている。

本当の「分断」は利害関係があるような場合だろう。

男は「7時から放送されるボクシングの試合を見たい」、女は「7時からのミュージック番組を見たい」、テレビは一つしかない。

今どきでは、くだらないと思うような問題(あるいは若い人には理解ができない問題)だが、むかしは家族のチャンネル権は争奪戦だった。

どちらも絶対に見たい、絶対に譲らない。もはやケンカが起こる。こういう対立が集団で起これば戦争である。

話し合いの場が設けられたところで、お互いが、自分の正当性を主張したり、相手を貶めたりするだけで、話せば話すほど反発感情が増すかもしれない。

こういう問題をどうアウフヘーベンするというのか?

正義や損得といった理屈では答えの出ない感情論がある。

法律は社会を維持するためのルールとしてあるので、結論は出せる。

けれど、それが本当に正しいのかどうかなど、はっきりと言えない人が多い。例えば死刑問題とか。

はっきり言うことが正しいわけでもない。偏っているだけの人もいる。

こういう問題が物語が扱うべきテーマともいえる。

作家は「物語の結論」という形で、自分の答えを提示しなくてはならない。

作家の器について

ここからは作家性、すなわち作家の思想や立場が、物語を書くことにどう影響するかを考える。

文学を考える5【作家性について】という記事を以前に書いていたが、もう三年以上も前の記事で、今とは言い方や考えなど違う部分もあるが、物語の結論は「作者自身の提示した一つの答え」となるという考えは変わっていない。

例えば物語の中で「男がストーカーをしていて、これが愛だという主張している」、「女が対話をして、それは愛ではないとわからせようとしている」という設定の物語があるとする。

それぞれのwantがあれば、葛藤すなわちアクト2は始まる。

物語のラストが「男が女を殺す」という終わらせ方をしたとき、おはなしとしては終わりになるが「愛とは何か?」という作者の主張はどうなるのか?

そんな物語を読んだ読者はどう思うだろうか?

「ストーカーって怖いね」と思うか「ある意味、男も可哀想だよね」と思うか、キャラクターの言動、ひとつひとつに左右されるが、物語の結論によって読者に対して一つの価値観を投げかけていることは事実である。

エンタメ作品などでは、読者が「作者の思想」など意識しなくても、物語は受け取る。

一般的な価値観、クリシェとして「ストーカーは怖い」というテーマを扱ったのだとしても、その一般論を助長していることになる。つまり作者は何も考えていないし、自分の物語に無責任ともいえる。

男女の例で考える。

男が池袋、女が新宿へ行きたい。これがwantである。

二人が話し合えばアクト2が始まる。アクト2は葛藤、ディベートのアクトとも言われる。

そして、アクト3では結論が出される。

男が「勝利」して池袋へ行くことになる。女は「新宿もいいと思ったけど、池袋も楽しいわね」なんて言わせてハッピーエンドに決着されたら、どう思うだろうか?

現実では、そういう結論もあるだろうし、個人間であれば何も問題ない。

そのカップルに対してフェミニストが何かを言ったとしても、無視するだけだろう。

だが、物語というのは社会に投げかけるものなので、作者は批判を受ける立場にある。

仲間内とかで読ませ合ってるなら、ともかくプロの作家は「物語を通してお金をもらう」のであるから、関係ないという態度では無責任といえる。

初心者で勇気や覚悟や「物語への敬意」が未熟なうちはともかく、プロで無自覚に物語をまき散らすのは、無責任である。

だが、物語上だからといって、なかなか結論の出せない問題もある。

それは作者性というより、作家の器のようなものなのかもしれない。

構成論でいうならアークプロットとミニプロットのどちらが難しいか。

技術的な部分だけをいえばミニプロットの方が難しい。

2時間で変化を描くのと、30分で変化を描くのは、時間が短いほどムダが許されないので難しいに決まっている。

無責任な作家は変化をさせないミニプロットを描く。問題提起だけがあって、結論を出さない物語。

ミステリーでいえば、事件が起きたのに誰も解決しない。問題から逃げるためにキャラばかりたくさん出てくる。

だから、初心者はアークプロットをしっかり描けるようになってから、ミニプロットを描けと指導している。

アークプロットは構成をつくるのは簡単だが、アークプロットで感動させるのは実は難しい。

「男女が池袋へ行く」タイプのどちらかが勝利するタイプの物語は簡単だ。

これは子ども向けの物語やファンタジーなどに多い。

明確な善悪があり、主人公は善、それを脅かす悪が現れて、勝利して平和を取り戻す。

ファンタジーに多いのは、悪は悪で全否定しても許されるからである。軍国主義のプロパガンダと同じ構図でもある。

アウフヘーベン型の結論はどうだろう?

「午前中に池袋へ行ってから、午後から新宿へ行く」ぐらいの解決は、2時間ももたないテーマ。

そもそも、たいした問題ではない。教育番組の数分のアニメなんかでならあり得る。

「みんな仲良く対話をしよう」ぐらいのメッセージで、それはそれでいい。技術があれば器の小さい作家でも描ける。

「男は池袋、女は新宿へ行く」という結論はどうか。

それは自立した男女なのか、擦れ違いの男女なのかは、作者の描写による。

ただ、セリフや今後の展開の予感によって、テーマは暗示されるので、作者が無自覚であっても、「そこで物語を終わらせた」ということが作者の結論と受け止められる。

「ビートの余韻」を理解した上で、しっかりとメッセージを提示していれば、ミニプロット的な演出であっても、それはアークプロットといえるかもしれない。

無自覚な作者がアクト3をきちんと描かないまま終わらせたものは、雰囲気が良くて曖昧さが好きという人がいても、結論から逃げた無責任さが付きまとう。ファンが多ければ職業作家としては続けていけるだろうが、刺さらない人には絶対に刺さらない。

独自のセンスでデビューしていった作家は、人気商売で物語を書いているだけ。商業主義に乗せられているだけだが、それにすら無自覚であるなら、物語を書く者として可哀想ですらある。

物語という、言うなれば神聖なものに向き合いながら、見せかけの名声と金を手に入れて、満足しているなら作家としての器は小さい。

結論の出せないようなテーマに向き合う作家は、己の器以上の物語に挑む作家である。

失敗するかもしれない。若い作家は、自身の未熟さによって処理しきれていないことも多い。

構成でいえば、問題提起である中盤まではよく描けているのに、最後があいまいになってしまっているようなもの。

無自覚であるより良いと思うが、無自覚な作者の書くものと似ている。

キャラクターの描き方などから、明確に読みとれることもあるが、作者自身と話してみないとわからないこともあるかもしれない。

同じ作者の作品を複数読めばわかることもある。無自覚であるか、挑戦しつづけているか。

挑戦を続けている作家は変化する。気づきがあったり、違う角度からの取り組みがある。

手に入れたあざといテクニックだけで、金儲けをつづける無自覚な作家としは違う。

初心者は、自身の器の大きさを考えることが物語創作の上達に必要なのかもしれない。

簡単にいえば、クリシェを避けること、オリジナリティを考えること。

どこかで調べてきた、他人の意見ではなく、作者自身が心を込めて描いたキャラクターの言動にはリアリティや魅力が宿る。

物語を書くことを通して、作家自身の人生という物語を描いていかなくてはならないと言えるのかもしれない。

緋片イルカ 2023.9.21

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