脚本を読ませてくれと頼まれた話
1年ぐらい前だが、ある人から脚本を読ませて欲しいと言われたことがある。
読みたいというのは、僕がTV局のコンクールで受賞したときのもので『月刊ドラマ』には掲載されているもので「古本で買うお金を出すほどではないが、どんなかんじか読んでみたい」のだと言われた。
良識がある人ならわかると思うが失礼千万である。
彼がまだ学生で社会経験もないのも知っていたので、こういうことは指摘してあげるのが優しさなのかもしれないと思い、おおよそ次のようなことを伝えた。
作家にとっての作品はとても大切なものであり、商品でもある。
読みたいと思うなら、対価を払うのは常識であり、礼儀であり、相手への敬意でもある。
絶版でどうしても入手できないけど読みたいというのであれば、読ませてくれと頼むのはわかる。
わざわざ、相手に手間をかけて読ませてもらうのだから、多少は「どうしても読みたいので、読ませてもらえないでしょうか?」という態度で頼み、自ら「いくら支払えば良いでしょうか?」とつけ加えるのが常識的な感覚だと、僕は思う。
相手方が「お金なんか良い」と言っても、一度ぐらいは「いえ、払います」と言うぐらいが日本人の普通で、あっさりと「あ、払わなくていいんですか?」と掌を返したら「こいつ、最初から払う気なかったな」と思われてしまう。
こんなやりとりを、みっともないと思う人もいるだろうが、気を遣える人は無意識にやっているし、やっていない人を「そういうやつ」だと評価もしている。少なくとも日本では、そういう気遣いを大事にしておいて損にはならない。
お金や、ましてや金額の問題ではない。対価を支払うということ自体が、作者や作品への敬意であり、さらに言えば「創作」に対する敬意だと思う。
「読ませてほしい」と頼んできた彼は、脚本家を目指しているということでやりとりのあった人なので、自分が書いた作品を同じように言われたらどうか?ということを説いて、そういうことに意識が向いていなかったと反省してくれ、今でも彼とは付き合いは続いている。
脚本を送った話
別の人との話で、僕の方から「読みたいなら読みますか?」と言ったことがある。
僕は自作が素晴らしいという自尊心や、褒めてもらう承認欲求は強くないので、僕から「読むか?」とはあまり言わない方だと思う。
読みたいと言ってもらえれば嬉しいけど、こちらから「読んで!」とはなるべく言わないようにしている(極めて親しい人には本当に読んで欲しいので言ってしまうが)。
もらう感想にしても、作品がより良くなるとか、今後の成長に繋がるようなヒントがあればありがたいが、ただ褒められても照れくさい。讃辞ばかり求めて社交辞令ばかりもらっていい気になっている人も見てきたので、ああはなりたくないと思ったりもする。
僕から「読みますか?」と言ったのは、僕が脚本を教えている相手で「セリフ」やら「ト書き」やらのポイントを、ああだこうだ言う前に、例として脚本を読んでもらった方がわかりやすいのではないかと思ったからだ。
相手は読みたいと言ったので、送った。
2つの作品を3人に送った。
1人目は、すぐに1本読んで感想がきた。もう1本については読んだら送りますと言ったきりもらっていない。
2人目は、1本目の冒頭の方だけ呼んだ時点で感想を送ってきて、改めて送るといったきりもらっていない。
3人目は、送ったことに対するお礼はあったが、作品に関してはもらっていない。
僕から送ったのだし、感想をよこせとまで言う気はないが、創作に対する敬意が不足しているのではないかとは思った。
社会的なマナーでいっても、社交辞令で「おもしろかったです」と一言でも返しておくべきかもしれない。これは贈答品をもらったときの感覚と同じだろう。
「脚本の勉強の参考に」と送っているのだから、感想だけでなく、技術的に感じた点などを返すというのが合目的的で、そういう反応があれば僕としても「送ってよかった」と思う。
返事を送ってこなくても何らか得るものがあったなら、それでいいが、そもそも読んでもいないということもあるかもしれない。
「返事をしない」ということは「そう思われる」ということである。
もちろん相手は僕の脚本なんか本当は読みたくないのに「読みたいか?」と聞かれて断り切れなかったということもあったかもしれない。
いらないのに自作を押しつけてくるような人はいる。
そういうときでも受けとる前に「すぐに読めるかわからないけど良いですか?」などと添えておくだけで相手方の印象は全く変わる。
「忙しいんだろうな」と思って、相手方もいつの間にか忘れてしまうかもしれない。
面倒な気遣いでも、やはり、しておいて損はないだろう。
同人誌にお金を払ってくれた話
文学村で同人誌『聴こえる』を発行したことがある。
しょせん同人誌なので、作者側が「読んで欲しい」という気持ちが強い類いのものではあるが、平気な顔で「ちょうだいよ」と言ってくる人と、たった500円でもきちんと(こちらが断っても)払おうとしてくれる人がいた。
とくに2人、親しい人なので印象に残っているが、この方々は別の状況でも「創作に対する敬意」を持っている人だと思うことが多い。
1人は自らも『聴こえる』に寄稿してくれた人で、払う立場にない人だが、発行のための手間やお金がかかっていることをわかってくれたのだと思う。
この方の書く作品は表現もきめ細やかで、読者の心に届くようなものだった。気遣いは作品にも影響するのだと再確認した。
創作うんぬんがなくても、こういう人とは今後も付き合っていきたいと強く思う。
同じように寄稿してくれた方で、当日来られなかったので郵送すると言ったが、いるのかいらないのか、返事をくれない人がいた。
金銭のやりとりはともかく、この人は少し自身の作品への敬意が不足しているのかもしれないと思った。
自分の書いた作品を大切に思える心は、時間をかけて、心を込めて丹念に書いたかどうかに関わるのではないか。
もちろん『聴こえる』なんかに寄稿したことを恥だと思って受け取りたくもなかったということもあるかもしれないが。
創作への敬意
ここまで3つのケースを書いたが、グチや文句を言いたいのではない。
今回、この記事を書こうと思ったのは、同様の「創作に対する敬意」が不足していると感じるケースに遭遇したからだ。
本人に直接ラインしようと思って長々とメッセージを書いたが、長いときつく聞こえてしまうと思い、じゃあ要点だけさらっと書いてみたら、これはこれで本質が伝わらないのだろうなと感じてしまい、結局、全文削除してしまった。
こういう話は説教くさくて、言う側も疲れる。お金が絡むと尚更言いづらい。
相手が感情的になりそうな人で、指摘したことで怒ってくるとか過剰に落ち込みそうな人にはとても言いづらい。
悪く思われる可能性を考えると「どうせ、損するのは本人だから」と適当に受け流してしまう人が多いと思う。
大人になればなるほど注意されなくなって、頑固親父とか口うるさい御局とか裏で嫌われがちな人になっていくのかもしれない。
だからこそ、言ってあげなくてはと思ったりもする。
創作に関して面倒をみている相手であれば、言ってあげるのが優しさや正しさではないかとも思う。
ラインのメッセージを全文削除したときは、やっぱり「損するのは本人だ、勝手にどうぞ」と、もう言わなくていいやという気持ちもあったが、最終的に今ここでこれを書いている。
上記のケースに登場した人も、このサイトを読んでいる可能性も高いので、読めば「自分のことだ」とわかると思う。
悪い例のように出してしまった人には申し分けないが、ずいぶん前の話だし、今はわかってくれてると思うから例として使わせていただいた。
今回、記事を書くきっかけになった出来事は、まだ、ごく最近の話だし本人がナイーブなので具体的な内容は書かないことにした。
わざわざ記事にしたのは、本人だけでなく周りの人へのヒントになればいいと思ったからでもある。
それと、このサイトで僕自身が言いたいことを言えなくなるのは良くないと思ったのもある。
書きたいことは書く。文章を書くというのはそういうことだと思う。
例にあげた、どのケースでも社会的なマナーも関わるが、創作に関わる話でもある。
「創作に対する敬意」が不足していると、作家として仕事をするようになったとき、どこかで地雷を踏むことになるかもしれない。
それ以上に、敬意が不足している作家の作品は、あらゆるところに気遣いのなさがでる。
作者自身が他人に気遣いできなければ、キャラクターの心情など描けるはずがない。
作者自身が他人の作品に敬意を払えないなら、その人の作品に敬意を(お金も)払う人はいない。
重箱の隅をつつくような細かいことだけど、そういうことができないのであれば創作には向かないかもしれない。
職人の工芸品を浮かべればわかる。たった一つの作品を創るのに、どれだけ繊細で骨の折れる作業をするか。
粗雑な態度で、人を感動させるようなものは作れない。
なにかの拍子に、たまたま感動されることはあっても、創りつづけることはできない。
作家になるということは、良い作品を求めて作り続けるということなのだから。
緋片イルカ 2023.8.28