前回は、日本が明治時代の動乱から、「軍国主義」、「経済成長神話」を経てきたことを考えた。
これらは神話的な「大きな物語」が生きていたといえそうである。
それが崩れる「ポストモダン」がいつから始まるのか?
「経済成長神話」は「バブル崩壊」によって崩れたといえる。「オウム事件」の信者達は、アルマゲドンなどというマンガ的な固定観念を信じていたが、背景には経済成長の裏でかんじる、言い知れようのない生きていくことへの不安や恐怖があったと思われる。
さらに「阪神淡路大震災」や「東日本大震災」などの自然災害が今もつづき、信じて身を預けられるような「大きな物語」はもはや見いだせない。
世界でも大災害が起きているのは同じだし、その原因の一つには本来なら人類が協力してとりくむべき地球温暖化という大きな課題に向き合い切れていない。テロリズムも「固定観念」だ(アメリカの国家的な物語の利用の仕方には、またいろいろと考えるべきテーマがあるが)。
不安や恐怖に生きづらさを感じられながら、同時に崇拝できるほど信頼に足る「物語」も見いだせない。それが現代のおかれている状況だと僕にはみえる。
大きな物語が失われたことが、人々に不安をもたらしている。
各人が、じぶんの「推し」をつくるように個人的な「偶像崇拝」に走っているうちはいいが、いまは国がプロパガンダするのに最適な状況でもある。自国優先の保護主義的な考えに従って、排他的になり、国民も賛同する。ナチスが当時がドイツで合法であったことを考えると恐ろしくなることもある。
こんな時代だからこそ「物語」にできることがあるはずである。
「物語」にしかできないことともいえる。
固定観念を打破する物語を生み出すことは現代文学の重要な役割でもあると思う。
じぶんの書くものが、そんな高尚なレベルに達していないのは痛いほどわかる。
書いていても迷ってばかりである。それでも書き続けなければいけないと思う。
深夜に思いつくまま記す。
緋片イルカ 2019/10/20
【文芸時評】11月号 早稲田大学教授・石原千秋 「いま」を書いているか
https://www.sankei.com/life/news/191027/lif1910270014-n1.html
文学の「いま」について、おもしろい記事でした。