「群像劇のプロットからビートを考える」(三幕構成20)

以下は、過去に映画の勉強会で用いた資料です。HDDから発見したので公開しておきます。映画を初見でプロットポイント1、2、ミッドポイントがつかめるぐらいに三幕構成を理解している方に向けています。初心者の方はどうぞこちらからご覧ください。

●キャラクター vs ストーリー
 キャラクターが重要か、ストーリーが重要かは水掛け論で答えはないが、確実に言えることは、どちらも重要であるということ。
 ストーリーは構成や事件で管理できるため客観的に評価しやすいが、キャラクターは主観が多く入るため判断が難しい。構成は学ぶことはできるが、人間観を学ぶには、作家自身の生き方が影響するなどとも言う。プロデューサーの中には構成は直せる(と思っている)ので、作家にはキャラクターをしっかり描いてほしいと言う人もいる。
 キャラクター至上主義者は、人間が描けていれば面白くなるという。しかし、キャラばかり優先してストーリーが停滞する作品もある。ジムキャリー主演の作品などがわかりやすい。彼のアドリブ?のような長い演技は好きな人には楽しめるが、苦手な人にはムダに感じる。
 ストーリー至上主義者は、構成さえできていればキャラクターは自然と変化するのでキャラが魅力的になるという。しかし、お決まりの変化で、ありがちなキャラクターになっているハリウッド映画もよく見かける。近年のCGアニメ映画などにこの傾向が強くなっているのは、ビートの考え方に基づいて作りすぎるためではないだろうか。

●ビートが主人公のアークを作るのか?
 アークとは主人公が変化をするまでの道のりと言える。人間が心底、変化するには大きなきっかけが必要である。例えば「妻を殺されて、世の中すべてを恨んでいるような男」が「許せるようになる」のは大きな変化だが、このためにはどういう経験が必要だろうか? メインストーリーのアクト2として丁寧に描かれた結果として変化するもので、誰かに「もう憎むのをやめろ」と言われた程度で、あっさり変わってしまったらリアリティがなく、観客は納得も感動もしない。
 では男が「牛肉を買いに行ったが、売り切れていたので、豚肉を買ってきた」というのは変化と呼べるだろうか? 感動はしないがこれも変化である。
 変化には3つの要素(民話論でいうモティーフ素)が必要である。

1:不均衡(世の中すべてを憎んでいる/牛肉を買う)
2:きっかけ(アクト2の経験/牛肉が売り切れている)
3:均衡(許す/豚肉を買う)

憎しみを抱えた男と、買い物に行く男は、構成上では同様に変化している。違うのは変化の度合いである。
また変化するまでにかかる時間も違う。
関数のX軸が時間、Y軸が変化の度合いと言える。

一人の人間の変化のアークを全体としてまとめればログラインになる。
「妻を殺されて、世の中すべてを恨んでいるような男が、
(アクト2の)○○を経て、許せるようになる」

その長いストーリーの中に「買い物に行く」というシーンがあるとする。
それをただ「牛肉を買う映像を映す」だけだと説明的な映像で意味がない。買ってきた後の次のシーンから描いた方がムダがなくて良い。
しかし、「牛肉が売り切れていた」というきっかけ(カタリスト)となるシーンがあれば、それは意味のあるシーンになる。例えば、憎しみを抱えた男が、珍しく今日は豪勢なすき焼きにでもしようという気分になって、普段はいかないスーパーへ行く。気分は上々。だが売り切れている。ここで男がリアクションをする。「たまに前向きになったと思ったら、これだ」結果的には豚肉を買って帰るとしても、気分は変化している。
 この「牛肉が売り切れていた」ということが、きっかけ(カタリスト)は事件であり、ビートである。
 それがたとえどんなに小さくとも、事件が起きて、それにキャラクターがリアクションをすれば、ストーリーは動いていく。キャラクターを描くというのはこの小さな変化の連続である。あるいは、キャラクターを描くとはビートのあるシーンを作るとも言える。ただし、その小さな変化が大きな変化につながっていない場合は、キャラクターは描けていても盛りあがりに欠ける。
キャラクターが重要という考え方はシーンの積み重ねからボトムアップでストーリーを作っていくことで、ストーリーが重要という考え方はトップダウンで人間を掘り下げていく、アプローチの仕方の違いと言える。

●主人公は必ず一人か?
 主人公が明確でその一人の変化を描いていくストーリーであれば、ビートと変化のアークを一致させていけば良い。必ず主人公がいると言う人さえいる。その範疇にはまらないのが群像劇である。
 群像劇、オムニバス、グランドホテル式といろいろ呼び方があるが、定義はあいまいである。主人公格(あるいは主役級キャスト)が何人かいるストーリーは一般的に群像劇と言われるが、構成上はいくつかのパターンに分けられる。

1:ワンシチュエーション型
 「グランドホテル」に始まるようなワンシチュエーション型。たくさんのキャラクターが出てきて、それぞれに小さなアークがあったりするが、基本的には主人公にあたる人物がいる。舞台セットの関係でシーン変化をさせづらい演劇との関連も深い。「12人の怒れる男」のように主人公よりも、シチュエーション自体がストーリーの魅力になっているので群像劇のように分類されるが、構成上は主人公のアークとビートが一致している。
「タイタニックの悲劇」とディカプリオの「タイタニック」はどちらも豪華客船というシチュエーションの中で群像的に展開されるが、前者は家族に焦点を当てて、父、母、子供達それぞれのドラマがあるので群像的に見えるが、後者はいわずもがなら主人公のラブストーリーに焦点をあてているので群像には見えない。

2:コントラスト型
 明確にアークをもった主人公格のキャラクターが二人でてくる。「ヒート」「メリンダとメリンダ」「インファイナルアフェア」「アメリカンギャングスター」などの構成。二人の主人公に対比の要素がありテーマを際立たせる狙いがあるが、アークを丁寧に描きすぎると二人の主人公の似たようなビートが展開されるため、繰り返しに感じられる場合もあるので、処理が難しい。それぞれの主人公を中心に展開するため、シチュエーションには縛らず、一般には群像劇とは言われないが構成上は群像の一種と考えると分析しやすい。

3:ショートムービーオムニバス型
 ショートムービーを抱き合わせにしたようなもの。それぞれのストーリーが独立している傾向がある。主人公が誰とは言いがたい。「パリ、ジュテーム」のようなものは完全なオムニバス。「クラッシュ」のようにお遊び程度にキャラクターが絡むものもある。ショートムービーを合わせることの特別感やテーマ性が必要。「ラブアクチュアリー」のようなアクト3で各キャラクターがあつまるような展開はベタだが、まとめるテクニックでもある。

4:ビート優先型
 ロバートアルトマン「今宵、フィッツジェラルド劇場で」や、PTアンダーソン「マグノリア」など、監督独自のリズムで群像劇に仕立て上げられているもののうち、ビートがしっかりとあるもの。主人公が明確ではなく、アークとビートが一致してないが、全体としてはビートがある。ビート自体がない群像作品は、単純に面白くない。

●ビートとアークが一致してなくても破綻させないテクニック
 ビート優先型やコントラスト型の群像劇では、各キャラクターに全てのビートを入れていくことは時間的にも構成的にも不可能である。ここには、「ビートは主人公のアークを作るものである」というハリウッド式の考えの呪縛もあるように思う。民話論のプロップはモティーフ素(≒ビート)と行為者を分けて捉える。行為者は誰でもよい訳ではないが、ビートが起きれば主人公以外のキャラクターがそれを展開しても良いのである。この考え方を応用すると、ビート優先型の群像劇が作れる。三角関係のラブストーリーなどにも応用できる。二人の男主人公を魅力的に立てることで、どちらがヒロインと結ばれるか最後までわからない展開にできる。ビートとアークを切り放して考えることによって処理できるストーリーの幅が拡がるのである(ビートの本質を身につけていることが前提ではあるが)。
以上

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