【換喩とはなにか?】
かんゆ‐ほう【換喩法】
(metonymy)修辞法の一つ。あるものを表すのに、これと密接な関係のあるもので置き換えること。活字で印刷物を表す類。⇔隠喩法
広辞苑にはこのようにあります。
換喩がどういうものかついては夏目漱石『坊ちゃん』の赤シャツといえば一言で片付きます。
挨拶をしたうちに教頭のなにがしと云うのが居た。是は文学士ださうだ。文学士と云えば大学の卒業生だからえらい人なんだらう。妙に女の様な優しい声を出す人だった。尤も驚いたのは此暑いのにフランネルの襯衣(シャツ)を着て居る。いくらか薄い地には相違なくっても暑いには極つてる。文学士丈に御苦労千万な服装をしたもんだ。しかも夫(それ)が赤シャツだから人を馬鹿にしてゐる。あとから聞いたら此男は年が年中赤シャツを着るんださうだ。妙な病気があつた者だ。当人の説明では赤は身体に薬になるから、衛生の為めにわざわざ誂へる(あつらえる)んださうだが、入らざる心配だ。そんなら序(ついで)に着物も袴も赤にすればいい。
坊っちゃんは「教頭」を「赤シャツ」に置き換えているのです。
あだ名といえばあだ名ですが、特徴的なもので置き換えることでキャラが立ちます。
例えば、マンガなどでは「眼鏡」をかけていることが知的や内向的なアイテムとして使われます。
むかしであれば運動ができなくて勉強しかできないやつのような印象付けがありますが、今はそれだけではないようです。
今の時代ではただ「眼鏡」では換喩としては弱いと言えます。
「金ブチ眼鏡」や「フレームが白い眼鏡」とかではどうでしょう?
少しキャラクター性がかいまみえます。
そうそう、むかしでも、度が強くて厚いレンズの眼鏡を「牛乳瓶(の底)」に喩える例もありました。
換喩では特徴的で、キャラクター性とマッチする喩え方が効果的なようです。
【換喩の効果は?】
次のような文章でも換喩が効いてきます。
学校生活に息苦しさを感じている少年が、先生に反抗したシーンとします。
「がたがた、うるせえんだよ」
オレの言葉に教室がシーンとした。
クラスメイト達は、恐ろしい獣でも見るようにオレを見つめている。
これを以下のように換喩をつかってみます。
「がたがた、うるせえんだよ」
オレの言葉に教室がシーンとした。
制服達が、恐ろしい獣でも見るようにオレを見つめている。
クラスメイトを「制服」に換えただけです。意味が伝わりづらくなるのは比喩の特性だからご容赦ください。
実際の小説では、これ以前の文章で「クラスメイトが学校に疑問を抱かず、制服を着てる人形達に見える」といったフリを入れておきます。
それによって「制服」=従順さや、無機質なものの象徴となります。
初めて主人公が反抗したシーンで、「制服達が」と置き換える効果がお分かりいただけるかと思います。
これは前回の「隠喩の効果」でも書きましたがイメージ化することでテーマやキャラクターを連想させる効果と同じです。隠喩は関連付けの根拠が曖昧ですが、換喩は見た目や小道具から関連付けていくのでハッキリしています。
【換喩の具体例】
換喩が巧みな小説と言えば、伊藤左千夫『野菊の墓』(※青空文庫のリンク)です。ご存知の方には、どう効果的かも説明がいらないと思いますが、未読の方のために引用しながら説明します。
明治三十九年に発表された、恋愛文学不朽の名作。どれほどの読者が泣いただろうか。感涙小説の原点。十五歳の政夫と二つ年上の従姉民子との間に芽ばえた幼い清純な恋は、世間体を気にする大人たちのために隔てられ、少年は町の中学に行き、少女は心ならずも他に嫁いで間もなく病死してしまう。江戸川の矢切の渡し付近の静かな田園を舞台に、純真、可憐な恋物語として多くの読者の共感をさそい続ける『野菊の墓』(Amazon内容紹介より抜粋)
タイトルにもある「野菊」は民子を喩えたものです。
「まア綺麗な野菊、政夫さん、私に半分おくれッたら、私ほんとうに野菊が好き」
「僕はもとから野菊がだい好き。民さんも野菊が好き……」
「私なんでも野菊の生れ返りよ。野菊の花を見ると身振いの出るほど好もしいの。どうしてこんなかと、自分でも思う位」
「民さんはそんなに野菊が好き……道理でどうやら民さんは野菊のような人だ」
民子は分けてやった半分の野菊を顔に押しあてて嬉しがった。二人は歩きだす。
「政夫さん……私野菊の様だってどうしてですか」
「さアどうしてということはないけど、民さんは何がなし野菊の様な風だからさ」
「それで政夫さんは野菊が好きだって……」
「僕大好きさ」
いまでいうデートのワンシーンです。その後、あらすじにもあるとおり二人は別れ、やがて民子は病死します。その手には、政夫の手紙と写真が握られていました。
民子の墓を前にして、
お祖母さんがまた、
「政夫さん、あなた力紙を結んで下さい。沢山結んで下さい。民子はあなたが情の力を便りにあの世へゆきます。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
僕は懐にあった紙の有りたけを力杖に結ぶ。この時ふっと気がついた。民さんは野菊が大変好きであったに野菊を掘ってきて植えればよかった。いや直ぐ掘ってきて植えよう。こう考えてあたりを見ると、不思議に野菊が繁ってる。弔いの人に踏まれたらしいがなお茎立って青々として居る。民さんは野菊の中へ葬られたのだ。僕はようやく少し落着いて人々と共に墓場を辞した。
墓にも野菊が咲いている。創作としてはあざとい程ですが効果的です。
「弔いの人に踏まれたらしいがなお茎立って青々として居る。」という一文が個人的には好きです。これは植物の野菊を描写した文章ととれますが、換喩の効果が働いていると、人間にはどうしようもならない力によって早死にした民子や、民子を失ってもなお生きていく政夫の力強さのようなものを匂わせます。
もう一つ、『イソップのレトリック―メタファーからメトニミーへ』という本に、映画や演劇の例があげられています。
これまで映画や演劇や劇画の中に、少なからざる数の換喩が指摘されて来ている。シェークスピアの『オセロ』では、イヤーゴがデズデモーナのハンカチを使ってオセロを陥れようとする。オセロはこの奸計によって妻の貞操を疑い、悲劇が始まる。劇の中ではデズデモーナのハンカチは、彼女の裏切りと不貞を告げる換喩として極めて重要な役目を担っていた。また、ルイス・マイルストン監督の『西部戦線異常なし』では、兵士の革のブーツが換喩として用いられている。前線に送り込まれて来る若者たちの中に、上等な革のブーツをもつ青年がいた。彼は戦死し、ブーツは別の兵士に受け継がれる。ところがその男もまた戦場に不帰の人となり、ブーツは三たび別の青年に譲り渡される。そしてそこでも同じ運命が繰り返されることになるのである。こうしてこの上等の革のブーツの映像は、それを新しく受け継いだ兵士の死を表わす、極めて印象的な役割を果たしていた。『バリー・リンドン』の冒頭の、少女の胸の中に隠されたリボンの場合も同様である。それは、男たちを誘惑したいという可憐な少女の貪欲な性的欲望を、微かなユーモアのうちに炙り出していた
ハリウッド映画ではイメージングシステムとして色、アイテムや衣裳、BGM、ライティングに至るまでをキャラやテーマのために全体を演出して無意識レベルに働きかける効果まで狙っています。映像的な換喩を、その一端とも考えられますし、映像効果のわかっている脚本家であれば、イメージを意図的にストーリーに組み込んでいくともいえると思います。
緋片イルカ 2019/09/01
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