今回は一枚の写真を使って、どう文章で表現していくかで、描写について考えます。
フリー写真素材ぱくたそ さんから、一枚の写真を借りてきました。
photo by すしぱく
model by 段田隼人
尚、表現内容はフィクションであり、モデル本人との関連は一切ございません。
写実的な描写
上の写真を写実的に表現してみると、
小太りの男がハッドグを食べている。チーズが伸びている。
と、端的に書きます。これは脚本のト書きの書き方です。
役者の表情は演出家、衣裳は衣装係が決めるので、ストーリー展開に不必要なら脚本に書かなくてもかまいません(読み手の想像力を補うために、わざと書く場合もある)。
この後のストーリーを少し決めてみます。
「伸びたチーズが袖に落ちる」→「熱くてハッドグを落としてしまう」という展開があるとすると、このシーンではチーズの伸びがストーリーで重要になります。
それなら、
小太りの男がハッドグを食べている。トロンボーンをひくみたいにチーズが伸びる。
ぐらい書いてもよいかもしれません。
「トロンボーンをひく」と「チーズ」は修飾関係としてはおかしいのですが、伝わればOKです。
厳密に「トロンボーンをひくように手を動かすと、それに合わせてチーズが伸びる」などと書いたら、読むテンポが悪くなります。
チーズ自体を比喩にして「ゴムみたいに伸びる」とかもありますが「トロンボーンをひく」には役者の手を伸ばす動きが含まれるので、こちらを採用しました。
「チーズが伸びる」というのは一般的な現象なので、わざわざ「ゴムみたいに」なんて表現は不必要ともいえます。
脚本のト書きは、カメラに何を写すかを指示するようなものなので、極めて写実的な描写といえます。
小説であれば、演出の部分を含めて描写を増やす必要があります。
男がハッドグを食べている。小太りのくせ毛の男が「ハッドグ」にかぶりついている。ハッドグは韓国のホッドドッグといわれるが、形は日本でいうアメリカンドッグに近い。中にはとろけたチェダーチーズがたっぷりはいっていて、食べると伸びる。噛んだチーズが伸びて、トロンボーンよろしく手をのばしきってもまだ切れない。男は口とハッドグに架かったチーズのつり橋を見て目を見張る。
熱々のかたまりが、男の薄いブルーのパーカーに落ちた。
「うわっち、ちちちっ」
布ごしでもチーズの熱が伝わり、男は串を落とした。
地面に突き刺さったハッドグがチーズ溜りを広げている。
男の衣裳や、表情も書き足す。「ハッドグ」についても説明しないと、知らない読者が想像できなくなります。カメラなら「ハッドグ」が映像としてカメラに写るので、脚本では説明はいりません。
観念的な描写
写実的描写がカメラで撮るように視覚的に描くものだとすれば、観念的描写は思考や感情で描くことです。写実を三人称的というなら、観念的は一人称的ともいえます。
若い男がハッドグを食べている。初めて食べるのだろう。チーズが伸びて驚いている。
若い男では、イケメンなのかオタクなのかわかりません。人によっては「若い」の幅も違います。
秋葉原のオタクがハッドグを食べている。初めて食べるのだろう。チーズが伸びて驚いている。
「秋葉原のオタク」という言葉は、もはや一般的なので、読者にはなんらかのイメージが湧くでしょう。髪や服装、体型といった視覚情報もなんとなく伝わるでしょう。しかし作者(あるいは小説上の語り手)の主観でしかありません。その言葉から、どんな風貌を想像するかは、読者によって変わります。秋葉原を好きな若者と嫌悪する老人では、印象もかわります。外国人がイメージする場合もちがうでしょう。
一般的なイメージを観念的に利用することは、伝わりやすい反面、伝えたいことからブレやすくもなるのです。
そのキャラクターが、物語上の重要な役割なのかも大事です。描写はストーリー展開に左右されるとも言い替えられます。
写実的描写の例では、このハッドグを食べている人物を、メインキャラクターとして扱いました。
「チーズをこぼし」→「ハッドグを落とす」という動きをカメラで追うのであればメインキャラクターです。モブキャラをカメラの中央に据えて写したとしたら演出ミスです。このシーンにしか登場しないモブキャラであれば、名前も必要ないし、一般名詞で書いておけば伝わります。むしろ描写しすぎると、読者にメインキャラクターであるような印象を与えてしまいます。
しかし、メインキャラクターであれば、一般的な比喩では物足りないといえます。しっかりと写実的に描写して個性を際立たせていく必要があります。
主観的な描写
写実的であれ、観念的であれ、作者(ないし小説上の語り手)の感情が入ることで、主観的な文章になっていきます。
豚がハッドグにしゃぶりついている。口の中では油と唾液が混ざってくちゃくちゃと粘液質な音を立てている。臭い。脂臭い。脂肪をため込んだ胴体から滲み出た汗を、吸い込んだパーカーは一週間以上洗っていないはずだ。
「うわっち、ちちちっ」
腕にチーズが垂れた。豚のチーズ焼き。せっかくのハッドグを落としやがった。
火傷した腕に残ったチーズを吸い取りながら、なおもまだ地面に突き刺さったハッドグを見つめている。今にも拾い上げて、食らいつきそうだ。
語り手が、この男を嫌悪している様が伝わります。まさに一人称視点です。
「秋葉原のオタク」を悪く言い過ぎているように感じるかもしれませんが、文中に「秋葉原のオタク」という一般表現は使っていません。つまり、この語り手は、オタクを嫌悪しているのではなく、目の前にいる「この男」を嫌悪しているのです。これがキャラクターを立てるということにもつながります。
この語り手は、どうしてこんなに嫌悪しているでしょうか?
さっきの文章に一行足すだけで、わかります。
豚がハッドグにしゃぶりついている。口の中では油と唾液が混ざってくちゃくちゃと粘液質な音を立てている。臭い。脂臭い。脂肪をため込んだ胴体から滲み出た汗を、吸い込んだパーカーは一週間以上洗っていないはずだ。
「うわっち、ちちちっ」
腕にチーズが垂れた。豚のチーズ焼き。せっかくのハッドグを落としやがった。
火傷した腕に残ったチーズを吸い取りながら、なおもまだ地面に突き刺さったハッドグを見つめている。今にも拾い上げて、食らいつきそうだ。
この豚が夫だと思うと死にたくもなる。
これでストーリーの方向が決まります。妻は離婚を考えるのか、夫をふたたび愛すのか。その展開の始まりとしての「嫌悪」の描写なのです。描写や主観は、ストーリーと関連するべきものです。ストーリーなき描写は、ただの作者の思い込みになってしまいます。
写実と観念のスケール
写実的な描写と観念的描写は、比率の違いがあります。1:9だったり、5;5だったり。
写実的描写がゼロの文章(観念しかない文章)というのはほぼありえません。あったとしたら、何を言っているのか伝わりません。小さな子どもの作文のようなものです。あえて書いてみると、
きらい。おいしくないもん。くさいし。そろそろねようかな。あした、たのしみだし。
こんなところでしょうか。
「何がきらい」なのか、「あした、どんな予定があるのか」わかりません。こういう表現が物語の途中で入ってくるのは「何だろう?」と思わせるフックになりえますが、この調子で3ページも続いたら、読む方は疲れて本を閉じてしまうでしょう。
少し書き換えてみます。
きらい。ネバネバしておいしくないもん。くさいし。そろそろねようかな。あした、会えるのたのしみだし。
「ネバネバ」という表現が加わるだけで連想ゲームのように「納豆かな?」「オクラかな?」と想像します。
「会える」という表現も、親か友達か、恋人か、相手はわかりませんが、人と会うのを楽しみにしているとわかります。
こんな調子でも、言葉を重ねていけば、だんだんと映像が見えてくるはずです。映像が見えてくるというのは写実に近付くということです。
だから、完全に写実のない物語は不可能だと思います(と断定してみると、どうしたら観念だけで書けるかと実験してみたくもなりますが……)。
写実的と観念的と、どちらが正しい、良いということはありません。
作者自身の感性からくる文体や、伝えたいテーマに合わせた選び方があります。
読者の好み、時代やジャンルによる描き方もあります。
ただし「読みづらい」「わかりづらい」と言われる原因には、このバランスの偏りが潜んでいるかもしれません。
あるいはストーリーなき描写によって、作者が前に出すぎているのかもしれません。
偏ったものの見方を「偏見」と呼びます。「偏見」は共感されにくく、けれど狂信的な支持者を生むこともあります。小説によっては読みにくいことが、文章の魅力になってしまうこともありえるのです。
正しい、良いという答えはありません。
自分が、何を、どう書きたいのかです。
緋片イルカ 2020/02/21
2020/02/23改稿
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