スリーポインツ
プロットアーク
PP1:(10万ドルを隠して)明日からリハを始めると宣言(24分28%)
MP:ナナ・ヌードルマンを説得(50分60%)
PP2:劇場が破壊(69分83%)
アクト3:野外でコンサート
mp3(50分53秒)
youtube版
分析・感想
キャラクターが複数でてきて、それぞれにドラマがあったりする場合に「群像劇」という言葉が使われがちです。構成の観点ではなく、作品の印象だけで「群像」と呼ぶ分には何でもよいと思いますが、構成的にはいくつかのタイプがあります。僕のざっくりした分類は以下です。
それぞれのキャラクターのドラマが独立していて他のキャラとの絡みがない場合はオムニバス形式。(『パリ、ジュテーム』『ニューヨーク,アイラブユー』)
完全に独立していればショートムービーを同時上映するだけになりますが、たいていは舞台やテーマでの関連性を持たせています。
その繋ぎとなっているものは、そのまま、タイトルになることも多くあります。(『グランド・ホテル』『タイタニックの最期』は舞台で、『クラッシュ』はテーマで。『バレンタインデー』『ニューイヤーズ・イブ』なら日付)
プロットアークを形成している中心キャラクターがいる場合は、そのキャラクターを主人公と捉えることもできます。
今回の作品も、支配人のコアラがその役割を果たしているので、群像劇というよりは、群像的と呼んでよいと思います。(『十二人の怒れる男』)
では、他のキャラクターは2人目の主人公となるのか、サブキャラクターとなるか? これは定義次第ですがしっかりとアークがあるなら主人公、簡易な変化しかなければサブキャラクターと呼んでよいと思います。この映画ではどうかは、後で見ていきます。
ちなみに、はっきりと二人の主人公がいる構成をコントラストプロットと呼んでいます(『ヒート』『メリンダとメリンダ』『ウディ・アレンの重罪と軽罪』)。
また、誰が主人公とも言いがたい構成になっているタイプは、ある意味、真の群像劇なのかもしれません(『マグノリア』)
とはいえ、群像劇の構成は作品によりけりで、あまり型はないのでプロットタイプと呼ぶ意味はあまりないと思います。
さて、支配人コアラ(名前に印象のない映画だったので動物名で呼ばせてもらいます)を軸とした、このキャラだけに注目してプロットアークをとれば、構成はとてもシンプルです。
あまり悩むところはないように思いますが、ビートシートを使わず、スリーポインツだけで分析している人は迷いやすいポイントもあるので「カタリスト」と「PP1」、「PP2」と「TP2」で迷う可能性があるかと思いますので、このあたりは丁寧に解説いたします。
「オープニングイメージ」は劇場そのもの。入口から場内へドローン撮影のような動きで入っていき、中は観客でいっぱい。若き日のナナ・ヌードルマンを顔見せしておきながら、支配人コアラの子供時代。ここだけで使われるナレーションはかなり雑な使い方です。ファミリー向けと言える映画なので、わかりやすさを優先しているのでしょう。ショービジネスを夢見る子供(want)から、一気に時間経過して借金まみれの現在を見せれば「主人公のセットアップ」は完了します。どういうキャラかはわかりました。「ジャンルのセットアップ」についてはタイトルからもわかるし、オープニングでも歌っていますし、あまり重要ではないでしょう。「常識から魔法は生まれない」といった台詞あたりは「プレミス」的ではありますが、この作品自体が、強いテーマがないのであまり機能しているとはいえないと思います。
コアラが借金から逃げて自転車で街を疾走しながら、他のキャラクター達の顔見せが入ります。
ギャング一家の息子のゴリラ。
子だくさんの主婦のブタ。
恋人の言いなりになっているロック少女のヤマアラシ
歌唱力はあるのにシャイな女の子のゾウ。
ストリートジャズミュージシャンのネズミ。
これらの5人が高速で紹介されます。ラストシーンで歌うメンバーで、メインに見えそうなキャラクターです。
カメラはレストランでのコアラに戻ります。ここでは金持ちの友人ヒツジが紹介されます。このヒツジは明らかにサブキャラクター。
「カタリスト」は「賞金10万ドル」と書かれたチラシが街に飛んでいく。これは12分のシーンです。現代映画のカタリストとしては、非常に遅く、原因は明らかに5人のキャラクターを紹介していたためです。
これはこの作品の特徴の一つだと思います。
構成上はとても綺麗に見えますが、5人を本当にバランスよく紹介する必要があったのか?
代わりに、もっとセットアップしておくべきシーンがあったのではないか?
これは、作品全体に通じる問いかけです。つまり、テーマが薄いのはキャラの描き方が薄いためで、コアラを主人公とするのであれば、父親との関係、劇場への思いなどドラマとして、もっとセットアップしておくべきことがあったはずなのです(アクト1でセットアップがあれば39分である父との思い出シーンでは、もっと深いシーンを描けたのです)。
とはいえ、演出のテンポもよく、動物だというのもあってキャラはわかりやすいし、「わざと薄くしている」のであれば、これでいいのだと思います。
カタリストが12分と遅れているため、その直後のオーディションシーンは「アクト2」に入ったようにも見えます。たくさんのキャラが歌うのもfun&gameのようです。これが「カタリスト」と「PP1」を間違えやすいポイントです。
オーディションがまだ「ディベート」だとわかるのは、カタリスト(チラシを配った)のリアクションでしかありません。また、コアラが賞金が「10万ドル」となっていることを知り、隠しててでもつづけるという決断から「非日常」が始まるのです。「デス」は死んだ父親のバケツの話からの感情が、アクト2へ入る勢いとして機能しています。
アクト2は群像的な展開になります。
ブタが子ども達と夫から逃れること、ゴリラは次の強盗計画のこと、ゾウは歌いたいのに裏方にされる、ヤマアラシは彼氏とギクシャク、ネズミは借金をしてクマに狙われるといった、それぞれのドラマ。
また歌そのものでも、ブタはリズム感、ゴリラはピアノの練習、ゾウはシャイな性格、ヤマアラシは自分を表現すること、という課題を持っています(ネズミは歌に関してはない)。
とはいえ、コアラを主人公として着目した場合、これはあくまで「劇場再建の話」です。
電気が止められる、合格していたカエルのグループが解散、銀行員(動物はリャマらしい)が返済が滞ったら差し押さえると告げに来る、といったイベントこそがプロットアークの「バトル」です。
その延長として、金持ちの友人の祖母=ナナ・ヌードルマンに出資を依頼して、特別公演に来てもらう了承を得るところで「ミッドポイント」です。ナナ・ヌードルマンは過去の想い出に浸りながら、ここでも「魔法のようだった」という言葉が使われています。作品全体、劇場や公演を魔法の時間のように表現しようとしていますが、いまいち言葉だけになっているような印象は受けます。コアラは「恐怖に負けて夢を諦めるな」などの父の言葉を復唱するシーンが何度がありますが、「魔法」というキーワードより父親との思いの方がコアに落とし込まれているせいです。テーマとなるキーワードにブレがあるのです。
リハを開始するところから「フォール」が始まります。メンバーたちは練習にことごとく失敗していきます。
ブタはステップができない、ゴリラは強盗計画で父が捕まるしピアノが弾けない、ヤマアラシは失恋で歌えない、ゾウは歌うかと言われても歌わない(ネズミは歌に関しては問題なし)。
そして、そのペイオフのシーンとして、
ブタはスーパーで音楽に身をまかせる体験、ゴリラはピアノを猛練習、ヤマアラシは作曲として、それぞれ課題をクリアしていきます。ゾウが歌う決心だけは保留。
「プロットポイント2」は、ナナ・ヌードルマンの前で、10万ドルがないことがバレ、水槽が壊れ、劇場自体が崩壊。
これまで、隠してきたウソがバレ(非日常のおわり)、目指してきた「劇場再建」も劇場の崩壊によりおわり。オールイズロストであり、プロットポイント2、旅はおわりです。
このあと、旅の再出発、つまりアクト3での野外ライブへ入っていくところまでは「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」というシークエンスです。このシークエンスが長い映画は「プロットポイント2」をまちがえやすくなります。
「PP2」と「TP2」という言葉は、ハリウッド関連の書籍で混同されて使われていますが、僕の定義では「プロットアーク」に関することは「PP2」として主に外的なイベントとしてとる、「キャラクターアーク」に関する感情的なことは[TP2」としてとるというように使い分けています。
ここでの、コアラの感情の流れを追うと、
「劇場崩壊」という外的なイベント=PP2=オールイズロスト。
「もう無理だ」と拗ねているシークエンス=ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル。
「ゾウの歌を聴いて、もう一度やるぞ!」と決心する=TP2。
となるわけです。
ビートの用語や定義よりも、こういった流れそのものを掴むことが、創作には大切になってきます。僕は僕の定義を使いますが、他の人の定義でも、自分の定義でもよいと思います。呼び方はつかっても、この感情の流れ(流れこそが構成でもある)は、どう解釈しようと変わらないからです。
さて、ゾウの歌を聴いて決心してからは、野外ライブに向けて動きだし、途中、銀行員によるツイストっぽい邪魔も入ったりしますが(ゴリラの父の脱獄は歌ばかりのシーンにアクションを入れるためだけの演出だと思います)、大団円に向かっていくので、とくに語ることもないと思います。前回のクイーンのライブと同じです。「ファイナルイメージ」では、新しい劇場に完成され、オープニングで描かれていた「魔法の城」が再生されたと理屈上はなります。
構成については以上です。
ドラマの薄さが湿っぽくなくて良いと思うか、物足りないと思うかは個人差が大きいでしょうが、映画として評価がやや低いのは、物足りないと感じる人が多いのでしょう。
ウィキペディアにあった「映画批評家によるレビュー」には以下のようにありました。(太字はイルカによる)
Rotten Tomatoesでは、182のレビューに基づいて72%の支持率を得ており、平均評価は6.49/10となっている。同サイトのコメントでは、「Singは、確かな声優陣と心温まるストーリーで、色鮮やかなアニメーションと陽気で見応えのあるエンターテイメントを提供している」としている[34]。Metacriticでは、37人の批評家に基づいて100点満点中59点の平均点をつけている[35]。シネマスコア(英語版)で投票された観客は、この映画にA+からFまでの平均評点「A」をつけた[36]。USAトゥデイのブライアン・トゥイット氏は、この映画に4つ星のうち3つ半を与え、「喋る動物のヒット作が多い1年の中で、『Sing』はそれほど強い数字ではない。それは特に考えさせられるような話ではないかもしれないが、確かに心を揺さぶる物語である。」と書いている[37]。ロサンゼルス・タイムズのレビューでは、ケイティ・ウォルシュが「本当に面白い瞬間があり、素晴らしい曲を兼ね備えたキュートな映画」と本作を呼んでいる[38]。アリゾナ・リパブリックのビル・グッディコンツは、この映画のレビューで、「Singは良い曲があちこちにあるアルバムのようなものだが、あまりにもフィラーが多く、ヒット曲が少ない」と述べている[39]。トロント国際映画祭で上映された本作をレビューしたイギリスのウェブサイトHeyUGuysのステファン・ペイプは、「全くオリジナルではない形式に沿っていることを早くから認識していたが、それにとらわれずに続けている」と述べ、2/5の評価を与えた[40]。同映画祭で本作を観たバラエティのピーター・デブルジュは、サブプロットに「深い人生の教訓」があるとは感じなかったものの、ジェニングスの演出、キャストの声の演技、そしてこの映画の愚かさを総合的に称賛している[41]。
ほんと、その通りだなといったかんじがします。
映画好きからしたら物足りなくても、親子やカップルが映画館でみて、見終わってから何も考えずに、食事や買い物へ行くという見方をされる分には、最適すぎるような映画ではないでしょうか。
ウォッチパーティーにいらしてくださった方で、「ディズニーみたいなコンプラ感がないのがいい」とおっしゃっていた方がいましたが、まさにイルミネーションらしい映画ともいえるかもしれません。
この映画は「リモート分析会」でとりあげた作品です。
今後もAmazon Primeの見放題作品から選んでいきますので、分析にご興味ある方はAmazon Primeの申込をおすすめしておきます。
次回は6月を予定しています。Amazon Primeの見放題が終了する作品だと困るので、開催の一ヶ月前になってから告知いたします。