【物語にできること(4)】(文学#14)

前回は、人はみんな自分の「生き方」「言葉」「物語」をもっていて、それに基づいて生きている。
あたりまえといえば、あたりまえだが、そう思えない人もいる。

「変わりたいのに、変われない」と感じている人たちだ。病んでカウンセリングに訪れるような人達である。「ダイエットしたいのに運動が続けられない」とか「勉強しなきゃいけないのにギリギリまで始められない」とか、そういうのも、程度の差はあれ、同じ現象といえる。

カウンセリングに訪れるような人は、生活に支障がでていることが多いので「変わりたい」気持ちは切実である。しかし、一人では変われない。だから助けを求めているのである。以前、スキーマ療法の記事を書いたが、人間が本質的に「変われるのか」「変われないのか」これも、また答えのない問いかけだと思う。

「夢」のときと同じように、変われる人もいれば変われない人もいる。
変われた人は「人は変われるはずだ」という物語を信じていて、変われないのは「その人が本当に変わろうとしてないからだ」と言うかもしれない。
そんな厳しい言葉に、ハっと目がさめて、変わっていける人もいるかもしれない。
けれど、その言葉によって、より追いつめられて命を落としてしまう人もいる。鬱病状態であれば、危険なときもある。

心理学は、いろんな流派があって「こころ」とはこういう風にできている。だから、こうすればいいのです、と理論を掲げている。それは臨床の現場で効果をあげているのであるから、詐欺ではない。でも効果のない人もいる。合う合わないもあるだろう。怪しそうな宗教でも、信じてみたら本当に治ってしまったというケースも、実際にはあるのだろう。科学的に証明できないことなど、あるのだ。科学こそが正しいということすら、また「科学崇拝」でしかない。

こんな風に考えていくと、一つとして正しい真理とか、全身をあずけられるほどに信頼に足ることなどないように思えてくる。

それは「人間が生きるということは、そもそも苦しくて不安なことなのです」ということだ。
僕にとっての「諦念」でもある。そういうものだからしょうがない。
でも、しょうがないと思った先に「物語を書くこと」で、何かが見えてくるかもしれないという小さな希望ももっている。

「生きるとは苦しいこと」これは、これで正しいけれど、そうでないかもしれないとも思える。
考え続けること、さらなる求め続けることは、崇拝をさけることと同じである。考えることをやめた思考は「固定観念」となる。これまで挙げてきた「念仏を唱えてればいい」とか「世の中はこうだ」といった「言語崇拝」や「物語崇拝」は固定観念と同じである。

「固定観念」を避けることは、ブッダがいう「偶像崇拝の禁止」と同じだと思う。

(長いので次回につづける)

緋片イルカ 2019/10/20

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