時間はあと十五分だった。先生が周りにいた数人を集めて「○○に行くか」と言った。僕は恋人と少し離れたところに座り込んで語らっているところだった。僕は先生がどこへ行くと言ったのかうまく聞き取れなかった。聞き返せる雰囲気でなかったが周りの反応で神社のようなところだと知れた。誘われた内の一人の女が、僕からそちらへやっていた恋人と目が合いやってきた。女は「行く」とだけ聞いた。彼女は曖昧な返事をした。僕への配慮からだ。
「行って来ていいよ」
まだ躊躇(ためら)っている。
「二人で来れば。面白そうよ」
「うん」
彼女達は含み笑いで何かを交わしたように思えた。
「行かない?」
「べつにいいよ」
「わたしは行きたい、かな」
今度は僕が歯切れの悪い返事をした。女が促す言葉だけ残して駆けていった。
彼女は僕が女友達の手前納得したものと思ったらしい。もう一度、機嫌を伺うように聞くので僕は重い腰を上げた。
「行くよ」
その参拝グループは自然な構成だった。予測していたとはいえ、それが嫌だった。僕と彼女の女友達が三人と、その内一人と仲のいいのが一人と、もう一人。もう一人の顔を見ると勉強熱心と落書きされている。本人も気付いているはずだ。それを消して反抗と睨まれて、別の不名誉な言葉を上塗りされるぐらいならこのままでいい。勉強熱心も馴染んでくれば悪くない。僕もそう思う。男一人だったのがそれを強く思わせた。
先生は始終黙っていた。時折、真面目真面目の彼女と真面目真面目な会話をしている。そこまでいくと僕も辟易したが、当人は至って楽しそうだ。僕に比べれば一際そう。
「ねえ、それでさっきの続きだけど」
彼女が言った。先生と生真面目が先頭を、仲立ちのを中心に他の女達が、僕と彼女がそれに続いた。小坂を上り岩鼻に阻まれて、集団が躓(つまず)いた。そこで前との距離が開いたの見計らって彼女は言った。僕は将来の展望について語っていたところだった。声を張り上げては語れない。聞かれて困るつもりはないが嘲(あざけ)られては弱る。
「いいよ。その話は」
「どうして、聞きたい」
「いい。いいと言ったら、いい」
彼女はそれで黙った。僕の言い方はそれほど強くなかったが、そこで会話が途切れたせいで意地悪く響いた。
すぐに前に追いついたので話し出さなくてよかったと思った。先生は二人でずいずいと行く。僕にはお構いなしだ。
僕らを誘いに来た女が寄ってきた。
「マリと話していると疲れる」
「確かに」
女は僕の方を見る。
「うらやましいなあ」
「この前の子はどうしたの」
「あれえ、話さなかったっけ。やめた」
「どうして? 無理そうなの? あんなに好き好き言ってたのに」
「諦めたんじゃないの。やめたの。なんだか軽いんだもの」
彼女がそうなんだという風に相槌を打つ。
「うん。同じクラスの子の話を聞くとね」
「そうなんだ。真面目そうなのにね」
彼女はそう言った。
「あいつ、わたしを映画に誘った日――ほら、部活の試合近いからって遊ばなかった日」
「うん」
「あの日、二二で映画行ってやがんの」
こちらを見ずに言う。二二を強調して。
「同窓会とか言ってたけど。二二だよ」
「うぅん」
彼女は共感を込めて深く縦に振った。しかし女は見てなかった。マリが横から入ってきてかき消してしまったからだ。
「ねえ、あれ」
顎で前の二人を指した。女達がまた含み笑いする。
「まったく」マリが言う。自分が呆れているのを示すように。周りが各々の言い方で同調する。彼女も「いいじゃない。ほっとけば」と言った。その言葉が非難を浴びせてるのは明らかにマリではなかった。彼女はその間、一度も僕の方を見なかった。僕は不愉快だった。彼女達が嘲弄(ちょうろう)した相手を可哀想(かわいそう)などとは感じない。その揶揄(やゆ)はある部分正しいとさえ思える。正しさを認めれば認めるほどに不愉快だった。汚らしい。
先生がこちらを待つ恰好で止まった。そこに近付くに連れ話の色が薄れていき、着いたところで気色(けしき)が一変した。
「あの橋の向こうだ」
先生が指さして言った。僕は先生の伸びた人差し指の先の向こうを追った。焦げ茶の鳥居らしきものが頭半分はみ出ている。橋を越えさらに上がったところにあるらしい。橋はそれほど長くない。向こうからこちらまで辿ることができた。先生は橋と言ったがそうは見えなかった。二つをつなぐものはその道しかない。そういう意味で自然の橋とでも呼べようか。けれど細い道にこそなれ、それぐらいである。
女達は疲れたの遠いだのやりながら先生に続いた。歩き始めてそこが橋だと知れた。細い道は二人分の足場しかなく、その両脇が溝になっていて自分が高い位置にいるような錯覚に襲われる。平衡感覚が乱されて歩きづらい。それが吊り橋を渡っているのに似ている。彼女が掴まるように手をつないできた。
「ごめんね」
「べつにいいよ」
それから二二で同窓会に行ってしまった軽い男の名前を教えてくれた。加えて彼のことを好きだった女が過去に彼のことをどんな美辞麗句で飾っていたかをいくつも挙げてくれた。数え尽きてそれでも絞りだそうとする。
「ふうん」
なるべく興味がない事を悟られないように頷いた。
やがて溝が浅くなっていき代わりに側面が迫ってきた。足が浮いた感じよりはいいと思ったが息が詰まる。歩く度に壁に当たるかと思うとどうしても歩幅が狭まる。彼女が自然と寄ってきて気持ちいい。もう二人では並べないというところで両岩がくっついて道を塞いだ。腰の高さぐらいの穴が開いている。僕がさっき見辿ったときに道の終わりと思ったところはこの穴だったらしい。皆するりと抜けていき、僕と彼女だけが残った。いよいよ僕の番だと穴と向き合った。彼女は僕が先に行くのを背後で待っている。彼女が手を離そうとしたので振り向いた。
「どうしたの?」
僕も抜けようと中腰になったがその高さでは通れない。一度起きてからさらに深く屈もうとしたところで、彼女が僕の上着を引っ張った。服が伸びそれを戻すように起こして彼女を見る。
「先行っていい?」
「べつにいいよ」
僕は彼女が通れるように横向きになって道幅を広げた。女は背が低い分それほど苦労しないらしい。上半身が潜ると臀部が残った。じりじりと脚を運ぶためそれが揺れる。に気を奪われているとぴょこりと消えた。小動物が巣から外の様子を覗いて、また巣に戻るようだった。僕も抜けると彼女が待っていた。
「どうしたの?」
「何が?」
「わたしの顔じろじろ見て」
「べつに、そんなつもりはないよ」
「そう」
前の集団とは離れてしまったらしい。僕は彼女と二人きりになって、ようやく気が晴れた。彼女も僕といる時のいつもの彼女に戻った。何も言わなかったが手をつなぐ素振りでそう感じた。今なら「さっきの話の続き」をしてもいいと思ったが彼女は聞いてこなかった。
木が茂っていてその先に横道がある。そこを目指す以外は道がない。前の集団がそこへ行ったことを僕は疑わなかった。歩き出すと急に全身が落下するのを感じた。踝(くるぶし)まで埋まったところで止まった。足下はひどくぬかるんでいた。彼女は僕の手に引っ張られて片足だけ埋めていた。
「大丈夫?」
「うん、びっくりした」
僕は片足を交互に揚げて汚れた足を見せた。地面を見回したが足場の良さそうなところはない。
「ないね」
「仕方ないよ。片足が濡れれば一緒だよ」
彼女はきれいな方も泥に汚した。僕らはなるべく汚れを増やさないように丁寧に運んだ。
「あれなんだろう」
僕の目線を彼女が追う。
「どれ?」
「ほらそこの小枝があるでしょ」
「うん」
「その陰に」
彼女の手から振動が伝わった。それで驚いた。彼女の驚きは僕の想像が正しいと思わせた。しかしそれは蛇ではなかった。僕には小枝の隙間に蛇が突っ込んでいるように見えたがそうではなかった。
沼も抜けると道らしい道に出た。みんなはいなかった。左手に登っていくと立て看板があって、路なりに行けば○○につくことが標してあった。その下に○○と書かれたものより見るからに古い木片で便所と紐で吊してあった。少し傾いている。○○の看板を立て直したときに忘れたのだろう。それで前のものを引っかけて吊している。彼女をそこに残して僕は便所に向かった。
そこは看板に負けじと古かった。入ってから出るまで乾いた小便の匂いが絶え間なく鼻孔に潜り込んできた。黄色い気体は躊躇することなく穴を抜けてくる。僕は彼女の尻を思い出した。
戻ると彼女がいなくなっていた。僕は考えを巡らして女達と逢って先に登ったのだろうと思った。あまり気持ちのいい考えではなかったが他に思いつかなかった。もし彼女がいなくても登れば誰かしらいるだろうと思った。看板の指す方を石の階段がゆったりとした螺旋状に連なっていた。僕は早足で登り切った。少し拓けたところにあの鳥居があった。遠くからは焦げ茶だったが近付いて見るとはげ残った朱が見える。その外からだんだんと薄くなっていくのが先生の頭のようだと思った。彼女はいなかった。女達の声もしない。そもそも人がいない。大きな石碑とその脇に説明書きがあるだけだった。石碑の前に一組の男女が手を合わせ参っている。それが先に行った先生と真面目生徒だった。しばらく伏せていた二人の頭が動き始めたとき、僕の体はとっさに引き返した。一目散だった。おそらく二人は振り返っただろう。僕だとわかっただろうか。そんな事を気にしながら僕はまた別の事を思っていた。先生が女生徒と関係にあるという噂を聞いたことがあった。そういう教師が近くにいることに不思議な思いはしたがすんなりと思えないところもあった。ただの噂話にすぎないとも思えるし、あんな男を好きになる女生徒がいるものかとも思った。それが二人が並んだ姿を見てすべて合点がいった。女達の含み笑いも通る。
階段を降りきり整地された路を戻った。それこそが○○への順路だった。先生は邪魔者を撒くためにわざと廻り道をしたのかもしれない。僕は駆け足で考えて、橋に行き当たった。それは鉛色したがっしりした本物の橋だった。小川に適したあまり大きくない橋。僕はそこをゆっくりと確かな足取りで渡った。渡りながら思った。彼女はどこに行ったのだろうか? 僕と同じように先生を見かけこの路を引き返したのだろうか? 僕はわからないことだらけだったが、一つだけわかっただけでも良かったと思った。
(了)