アニメ『さらざんまい』設定考察(設定を掘り下げる意味)

前回前々回と二回にわたって『さらざんまい』を構成の観点から分析しました。

ていねいに分析するとストーリーや設定の矛盾点が明確になります。
『さらざんまい』はリアリティな世界観よりもパッションやメッセージに重きを置いて描かれている作品なので、設定の矛盾を突くことは本来のテーマから離れてしまいます。

近年、曖昧さを残すアニメが増えていて、観客参加型で考察をネットにあげることで作品自体が盛り上がっていくという現象があるので、業界がそれを狙っているのであれば見事ともいえるし、日本の観客のリテラシーの高さがうかがえます。

この記事で考えたいことは「設定」を曖昧にすることと、明確にすることで、作品にどのような違いが生まれてくるかについてです。

※以下、ネタバレ含みます。

【魔法にルールを設定すること】
『さらざんまい』の設定上、一番大きな問題だと思うのは「希望の皿」の力の範囲が未設定なことです。
どんな願いごとが叶うのか? 限界があるのか?
はっきりと語られていません。

ちなみに映画のストーリータイプの一つに「魔法のランプ」というものがあり、魔法や超能力によって望みを叶えていくタイプで、そこには「魔法にはルールが必要」「ルールは最初に忠告されてなくてはならない」というセオリーがあります。(※このことについては『10のストーリー・タイプから学ぶ脚本術 ──SAVE THE CATの法則を使いたおす!』に書いてあります)
ルールが無制限の場合、例えば「希望の皿」を使って「神になってすべてが思い通りにできるようになる」という子供が考えそうなストーリー破綻を論破できなくなります。
また、ルールが後から加わることを一度やってしまうと、観客はどうせまた都合のいいルール変更があるのだろうと思ってしまい、観客の中での魔法の魅力が半減してしまうのです。
これは連載マンガでは、連載途中で処理しきれなくなったときにルール変更が行われて、結局、インフレが起こったりする現象で見られます。
『ドラゴンボール』では前半では集めるワクワク感があったのに、後半では「生き返りの道具」に成り下がってしまい、さらに途中から生き返るための条件も加わったりしています。
これによって、ドラゴンボールは冒険マンガというよりバトルマンガと捉えられています(どちらにせよ面白いのは変わりないのですが)。

『さらざんまい』の「希望の皿」に戻ると「神になる」といった目的をもったキャラクターがいないのはともかく「生き返り」はできるようです。
久慈が兄を生き返らせようと思ったり、レオがマブを生き返らせようと思っていることに疑問は持たれていません。
細かくツッコミを入れるなら一稀は弟の脚を治してあげたいと思わないのか?とかもあります。
これらの能力の限界はケッピが説明していないだけともとれますが、作り手が物語上で説明していないともいえます。

【「希望の皿」で生き返れるなら……】
「人を生き返すことができる」は良しとしても「一回で一人しか生き返らせることしかできない」というルールも明示されていません。
そこで第10話のラストで主人公の一稀は、燕太の寿命が迫っている中で、久慈に皿をよこすように銃をむけられます。
この時、「友達がみんな幸せになる」とか「三人が一緒に居られるように」といった願いを発していたなら、二人とも助けることが出来たかもしれません。

また「希望の皿」のより根本的な問題点としては「皿をケッピが生み出すものであること」があります。
どういう仕組みで、どういう制限の中で皿を生み出しているのか?
あるいはラストで絶望と融合してして王子の姿となったケッピには無限に生み出せることができるのか?(だからレオとマブが生き返っていた?)
このあたりのルールにも制限がかかっていないので、謎が残ります。
「希望の皿」が何でも叶えられてしまうのなら、カパゾンビを大量生産して「希望の皿」を生み出すサイクルの方が世界がよりよくなるようにすら感じてしまいます。

【もし「希望の皿」に制限があったなら?】
『さらざんまい』はとても好きなアニメになったし批判をしたい訳ではないので、この記事の本来の目的に戻ります。
もしも、しっかりと制限をしていた場合、ストーリーはどのように変化していたか?
それを考えることが重要です。

一つ思い出すのはイルカが参加したアニメの脚本会議で「その問題には触れないでおこう」という方向で話されることがありました。
あることをキャラクターが指摘してしまうと、観客もそれが気になってしまうので、そのことには触れないでおこうということです。
今回の「希望の皿」でも同じような印象を受けます。
だからか、誰もケッピに「人を生き返らせる能力」まであるのかどうかは尋ねません。

もし「人を生き返らせることができない」として、それがケッピが説明していなかっただけとしても、作り手がその設定をはっきりと意識していたなら、たとえば「久慈が金の皿を奪う。しかし生き返らせることはできない」という絶望を作ることができます。そのことから黒ケッピに飲まれていく方が、ただ「疲れた」と飲まれていくより、よりドラマチックなシーンになったりしたのではないでしょうか?
この設定は物語全体のテーマにも関わるので、意味があります。
人間のつながり、命のつながりといったテーマを扱っている作品なので「希望の皿」でも死んだ人を生き返らせることはできないということは強いメッセージになります。
死に対するメッセージがあれば、欲望昇華され、つながりから外れることで「最初からいなかったものになり、人々の記憶からも消える」という設定との対比になります。
つながりから外れるよりは「死」のがいいもの見えてきて、久慈は兄の死をしっかりと受け止めて、生きていく強い人間に成長していけるように見えます。
このサイトでは何度も書いていますが、すべての物語において「死」というのはとても重要な要素なのです。

また「希望の皿」を生み出すには枚数制限があったとしたら、どうでしょうか?
もうケッピは皿を製造する力がないとすれば、すべてのキャラクターの5枚の皿を奪い合う本気度が変わります。
さらにクライマックスでの願いが最後の一つの願いであれば、蘇った後のケッピの「行先が常に明るいとは限らない」「希望も絶望も命とともにある」といったセリフが別の重みをもってきます。
これからの世界「希望の皿」という便利な道具はない。自分たちの生きる力で、人とつながることを諦めてはいけないという強いメッセージに変えることができたはずです。

【設定と向き合うことは、作品と向き合うこと】
このように「設定」ときちんと向き合うことは実はテーマやストーリー、キャラクターのセリフにまで影響するということがわかります。
とくに「何でも願いを叶える」といったパワーアイテムは中途半端に扱うと、ご都合を生んでしまう危険をはらんでいます。

ファンタジーやSFだけでなく、現実を題材にしたストーリーでも「この人、収入いくらなの?」という疑問が浮かんでしまうことがあります。
そこを曖昧にせず、考えていったときに「お金が原因で、何かが起こる」という事件が生まれてきたりします。

緊張感のある面白い作品を楽しんでもらうためにも、テーマをより強く投げかけるためにも、設定から逃げずに向き合うことは大切だなと思います。
作り手として胆に命じていきたいと、自分に思うのであります。

緋片イルカ 2019/06/23

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