以前に言葉の「固着機能」ということで記事を書いた。(「ことばの固着機能」)
たとえば、ある日、胃が痛くなったとする。胃腸は丈夫で、普段は痛くなることなどない。
「何でだろう?」
生ものや、辛すぎるものを食べた記憶はない。つまり原因がわからない。
次の日には治るだろうと寝てしまうが、起きると、まだ痛い。不安が募る。
「何か病気ではないか?」
病院に行って診断を受ける。
「ストレスですね」
何となくホッとする。
ストレスという言葉が使われるようになってから100年もないだろう。
主観的で、曖昧とした言葉なのに、なんとなく使われる。子どもでも使う。
これが言葉の「固着機能」だと思う。
命名することで、何となく安心したり、それについて思考できるようになったりする。
この対義語として、今回考えるのが「剥離」という言葉である。
意味を限定するのが、言葉の「固着」であれば、意味をあやふやにして再定義を促すのが「剥離」である。
つまり、言葉としてラベリングされている意味を「剥離」するのである。
これはロシアフォルマリズムの「異化」に対する、僕の捉え方である。
しかし、既に定義されている言葉を借りると、別の意味が固着されていて、僕の使いたい意味に扱えないことがあるので、新しく「剥離」とすることにした。
剥離という言葉だって、もともと固着した意味がある。(広辞苑によると「はぎはなすこと。はがれはなれること。」)
けれど「剥離された言葉」は、普通は使われないと思う。そういう意味では新しい言葉となる。
そもそも全く新しい言葉(音)なんていうのはほとんど存在しない。
「プヤモ」(※今、適当に売った言葉)という言葉を作って、それはこういう意味ですと定義することもできるが、言語が他者への伝達手段ということを考えると、効率が悪くなる。
「はがす」という意味しかない「剥離」という単語を、「言葉」に対して使うことで、新しい意味合いを込めるのである。
具体的に示そう。その方が、定義よりもわかりやすいはず。
たとえば「殺人鬼」という言葉を「剥離」してみる。
最初は広辞苑を引くと、
さつじん‐き【殺人鬼】
むやみに人を殺す鬼のような悪人。
となっている。これを前提にして文章をつくる。
①彼の目つきはまさに殺人鬼であった。
殺すような、恐ろしい目であることがわかる。普通の文章である。
学校の作文であれば、こういった辞書通りの使い方を教えること(まあ、作文じゃ殺人鬼なんて出てこないか)。
国語のルールこそが正しいと思い込んでいる人、正しい日本語などと言う人もいるだろう。
②彼は笑いの殺人鬼であった。
「笑いの」という形容詞をつけただけで、お笑い芸人のキャッチコピーのようになる。
ものすごいキレのあるギャグで、観客の腹をよじって笑い殺すのだろうか?
ブラックジョークが得意のなのかもしれない。
この「殺人鬼」という言葉には「むやみに人を殺す鬼のような悪人」という広辞苑の意味が剥がれかけている。
言葉の再定義の面白さがあるが、まだ文学ではない。
③その目覚まし時計は殺人鬼だった。
目覚まし時計の音の大きさ、やかましさを「殺人鬼」に喩える比喩である。
起こされるときの驚きに「人を殺す」雰囲気こそ、まだ残っているが、「悪人」どころか人ではない。意味がほとんど剥がれている。
言葉を聞く側に、比喩のスイッチが入れば、どんな言葉でも意味が通るように思える。
「○○は殺人鬼である」の、○○にランダムに言葉を入れても成立してしまう。
比喩が文学に欠かせないと思われているのは、この辺りの作用からだろう。
ただし、これは、いきすぎというか、どんな言葉でも意味が通ることは、同時にすべての言葉が無意味にもなってしまう。
ニヒリズムの境地まで立てば、言葉にできないものの存在が浮かび上がってくるだろうが、そこまでいくと物語ではない。文学の本質ではない。
④その殺人鬼は、誰よりもわたしを愛してくれた。
ここでは殺人鬼を「むやみに人を殺す鬼のような悪人」という意味を使っている。
けれど、「誰よりも愛してくれた」というところに違和感が出る。
そう感じる人は「殺人鬼」は「他人を愛したりしない」という思い込みがあるのである。
思い込みがあるから、矛盾を感じる。
そこに、言葉を受け取る側に「剥離」が起きる(「異化」でもいいが)。
「いったいどういうことだ?」
「どんな殺人鬼なんだ?」
「わたしはどんな人間だ?」
と、その物語のつづきを読みたいと思う。
そして、読めば読むほど、読者の中の「殺人鬼」という言葉の定義が崩れていく。
比喩ではなく、彼は本当に(物語の中で)「むやみに人を殺す鬼のような悪人」の一面を持っている。
間違いなく、言葉通りに「殺人鬼」だ。
なのに、なぜか、彼に共感してしまう部分がある。
そんな物語があったら、それが文学である。
人間にとって「他人」は、何を考えているかわからない、ある意味、怖い存在でもある。ストレスの原因にもなる。
家族とか、友達とか、同僚とか、肩書や性格を「固着」して付き合っているが、知らなかった一面を見たときに驚かされることがある。
ニュースで犯罪者を知る人の声によくある「そんなことをする人とは思わなかったのに」というやつだ。
けれど、人間は複雑だ。誰もが人に言えない側面を持っているという訳ではないが、自分自身にもわからない、うまくコントロールできない面があったりする。
大人になれば、嫌な感情を受ける相手とは付き合わなくなったり、それなりの対処ができるようになって忘れてしまうことも多い。
あるいは、逃げ切れずストレスに押しつぶされる。
不条理なのは人間だけではない。
自然に対して、征服した気になっていても、突然しっぺ返しをくらい、人類の無力さを思い知る。
文学によって固定した言葉が「剥離」されることで、読者は「世界が不条理であること」を思い出す。
それは「神が生きていた世界」に近い。
人間は多くのことに恐れて、同時に畏敬の念を抱いていた。
安全な国で、目を背けて、考えないように生きていても、世界はいまも不条理だ。
老病生死。
明日には死ぬかも知れないし、明日でなくても何年後、何十年後には、必ず死ぬ。
そのことを受け止めて、それでも、いま、この時代を、この場所で、何を思って生きて行くのか。
死を思いながら、今を生きることは「二つの世界に生きる導師」でもある。
緋片イルカ 2022/01/12