「剥離」された言葉(文学#59)

以前に言葉の「固着機能」ということで記事を書いた。(「ことばの固着機能」

たとえば、ある日、胃が痛くなったとする。胃腸は丈夫で、普段は痛くなることなどない。

「何でだろう?」

生ものや、辛すぎるものを食べた記憶はない。つまり原因がわからない。

次の日には治るだろうと寝てしまうが、起きると、まだ痛い。不安が募る。

「何か病気ではないか?」

病院に行って診断を受ける。

「ストレスですね」

何となくホッとする。

ストレスという言葉が使われるようになってから100年もないだろう。

主観的で、曖昧とした言葉なのに、なんとなく使われる。子どもでも使う。

これが言葉の「固着機能」だと思う。

命名することで、何となく安心したり、それについて思考できるようになったりする。

この対義語として、今回考えるのが「剥離」という言葉である。

意味を限定するのが、言葉の「固着」であれば、意味をあやふやにして再定義を促すのが「剥離」である。

つまり、言葉としてラベリングされている意味を「剥離」するのである。

これはロシアフォルマリズムの「異化」に対する、僕の捉え方である。

しかし、既に定義されている言葉を借りると、別の意味が固着されていて、僕の使いたい意味に扱えないことがあるので、新しく「剥離」とすることにした。

剥離という言葉だって、もともと固着した意味がある。(広辞苑によると「はぎはなすこと。はがれはなれること。」)

けれど「剥離された言葉」は、普通は使われないと思う。そういう意味では新しい言葉となる。

そもそも全く新しい言葉(音)なんていうのはほとんど存在しない。

「プヤモ」(※今、適当に売った言葉)という言葉を作って、それはこういう意味ですと定義することもできるが、言語が他者への伝達手段ということを考えると、効率が悪くなる。

「はがす」という意味しかない「剥離」という単語を、「言葉」に対して使うことで、新しい意味合いを込めるのである。

具体的に示そう。その方が、定義よりもわかりやすいはず。

たとえば「殺人鬼」という言葉を「剥離」してみる。

最初は広辞苑を引くと、

さつじん‐き【殺人鬼】
むやみに人を殺す鬼のような悪人。

となっている。これを前提にして文章をつくる。

①彼の目つきはまさに殺人鬼であった。

殺すような、恐ろしい目であることがわかる。普通の文章である。

学校の作文であれば、こういった辞書通りの使い方を教えること(まあ、作文じゃ殺人鬼なんて出てこないか)。

国語のルールこそが正しいと思い込んでいる人、正しい日本語などと言う人もいるだろう。

②彼は笑いの殺人鬼であった。

「笑いの」という形容詞をつけただけで、お笑い芸人のキャッチコピーのようになる。

ものすごいキレのあるギャグで、観客の腹をよじって笑い殺すのだろうか?

ブラックジョークが得意のなのかもしれない。

この「殺人鬼」という言葉には「むやみに人を殺す鬼のような悪人」という広辞苑の意味が剥がれかけている。

言葉の再定義の面白さがあるが、まだ文学ではない。

③その目覚まし時計は殺人鬼だった。

目覚まし時計の音の大きさ、やかましさを「殺人鬼」に喩える比喩である。

起こされるときの驚きに「人を殺す」雰囲気こそ、まだ残っているが、「悪人」どころか人ではない。意味がほとんど剥がれている。

言葉を聞く側に、比喩のスイッチが入れば、どんな言葉でも意味が通るように思える。

「○○は殺人鬼である」の、○○にランダムに言葉を入れても成立してしまう。

比喩が文学に欠かせないと思われているのは、この辺りの作用からだろう。

ただし、これは、いきすぎというか、どんな言葉でも意味が通ることは、同時にすべての言葉が無意味にもなってしまう。

ニヒリズムの境地まで立てば、言葉にできないものの存在が浮かび上がってくるだろうが、そこまでいくと物語ではない。文学の本質ではない。

④その殺人鬼は、誰よりもわたしを愛してくれた。

ここでは殺人鬼を「むやみに人を殺す鬼のような悪人」という意味を使っている。

けれど、「誰よりも愛してくれた」というところに違和感が出る。

そう感じる人は「殺人鬼」は「他人を愛したりしない」という思い込みがあるのである。

思い込みがあるから、矛盾を感じる。

そこに、言葉を受け取る側に「剥離」が起きる(「異化」でもいいが)。

「いったいどういうことだ?」

「どんな殺人鬼なんだ?」

「わたしはどんな人間だ?」

と、その物語のつづきを読みたいと思う。

そして、読めば読むほど、読者の中の「殺人鬼」という言葉の定義が崩れていく。

比喩ではなく、彼は本当に(物語の中で)「むやみに人を殺す鬼のような悪人」の一面を持っている。

間違いなく、言葉通りに「殺人鬼」だ。

なのに、なぜか、彼に共感してしまう部分がある。

そんな物語があったら、それが文学である。

人間にとって「他人」は、何を考えているかわからない、ある意味、怖い存在でもある。ストレスの原因にもなる。

家族とか、友達とか、同僚とか、肩書や性格を「固着」して付き合っているが、知らなかった一面を見たときに驚かされることがある。

ニュースで犯罪者を知る人の声によくある「そんなことをする人とは思わなかったのに」というやつだ。

けれど、人間は複雑だ。誰もが人に言えない側面を持っているという訳ではないが、自分自身にもわからない、うまくコントロールできない面があったりする。

大人になれば、嫌な感情を受ける相手とは付き合わなくなったり、それなりの対処ができるようになって忘れてしまうことも多い。

あるいは、逃げ切れずストレスに押しつぶされる。

不条理なのは人間だけではない。

自然に対して、征服した気になっていても、突然しっぺ返しをくらい、人類の無力さを思い知る。

文学によって固定した言葉が「剥離」されることで、読者は「世界が不条理であること」を思い出す。

それは「神が生きていた世界」に近い。

人間は多くのことに恐れて、同時に畏敬の念を抱いていた。

安全な国で、目を背けて、考えないように生きていても、世界はいまも不条理だ。

老病生死。

明日には死ぬかも知れないし、明日でなくても何年後、何十年後には、必ず死ぬ。

そのことを受け止めて、それでも、いま、この時代を、この場所で、何を思って生きて行くのか。

死を思いながら、今を生きることは「二つの世界に生きる導師」でもある。

緋片イルカ 2022/01/12

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