三幕構成 中級編(まえがき)
三幕構成の中級編と称して、より深い物語論を解説しています。連載回数は未定です。思いつくことがある限りつづけます。
中級編の記事では、ビートを含む用語の定義や、構成の基本、キャラクターに対する基本を理解していることを前提としています。しかし、応用にいたっては基本の定義とは変わることもあります。基本はあくまで「初心者が基本を掴むための説明」であって、応用では、例外や、より深い概念を扱うので、初級での言葉の意味とは矛盾することもでてきます。
武道などでも「守」「破」「離」という考え方があります。初心者は基本のルールを「守る」こと。基本を体得した中級者はときにルールを「破って」よい。上級者は免許皆伝してルールを「離れて」独自の流派をつくっていく。中級編は三幕構成の「破」にあたります。
以上を、ふまえた上で記事をお読み下さい。
超初心者の方は、初心者向けQ&A①「そもそも三幕構成って何?」から、ある程度の知識がある方は三幕構成の作り方シリーズか、ログラインを考えるシリーズからお読みください。
なお、初級編では主に『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』を中心に、不足部分を補うように進めてきました。中級編で中心になる書籍は『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』です(以降、同書を『ストーリー』と表記します)。なかなか理解しづらい本なので購入のおすすめいたしませんが、記事に引用することは多くなりますので関連する内容を参照したいときにはご利用ください。英語表記は原書からです。
ストーリー価値と3種類のエンディング
前回の記事ではシンデレラを例に「プロットアーク」と「キャラクターアーク」の違いを示して、キャラクターアークによって「ストーリー価値」が変わるということを説明しました。
今回はストーリー価値とエンディングの関係を示します。
続編へのフリなどを無視すれば、基本的なエンディングは2つです。
ポジティブエンドとネガティブエンドです。
言い替えればハッピーエンドとバッドエンド。とくに説明はいらないかと思いますが、ポジティブ/ネガティブの基準となっているものはあくまで作品内で扱われている「ストーリー価値」に対してのものであるということを掴んでおくことが重要です。
ストーリー価値が「愛」であれば、愛を得ればポジティブ、得られない、または失えばネガティブとなります。
では、次のような場合はどうでしょうか?
「お金持ちになったけど、恋人と家族を失った」
これをポジティブと思うか、ネガティブと思うかは主観的な判断によります。
金持ちになる=「経済力」というストーリー価値ではポジティブエンド。
恋人と家族をうしなう=「愛」というストーリー価値ではネガティブエンド。
多くの人はバッドエンドと思うのではないでしょうか? おそらく作者もそう演出するでしょう。これは、現代の物語では「経済力」と「愛」では、愛の方が重い価値と思われがちだからです。
あくまで主観的なので「愛」なんかよりも「経済」が大事と思っている人なら、この「お金持ちになったけど、愛を失った」主人公を見て「おまえは正しい判断をした!」とポジティブエンドに感じるかもしれません。それはもちろん自由です。
ちなみに「ストーリー価値」の判断に統計を持ち込むことも可能かもしれません。しかし、このサイトは「創作のための物語論」であって、研究ではないので、そういった学問的なことは研究機関に任せたいと思います。AIを使った分析も考えられると思います。ただし統計から見えてくるものは、個人的な予想では「ミステリー」「恋愛」「生死」など、むかしから言われるビッグジャンルが大衆に人気であるということを再確認するだけではないかなと思います。やってみはくてはわかりませんが……。
創作という観点では、売れるかどうかより「自分が書きたいテーマ」なのかどうか重要です。「ストーリー価値」は作者のテーマの反映です。だから主観的でいいのです。
やや横道にそれましたが、話をもどして……「お金持ちになったけど、恋人と家族を失った」主人公でした。
そのポジティブかネガティブの判断はともかく、そこには2つのストーリー価値があり、それぞれが正反対でエンドを迎えています。こういうものをアークがが交差するエンドとして「クロスエンド」と呼びます(造語です)。
数値としてみたとき「経済力でプラス1」「愛でマイナス5」ぐらいの感覚で、バッドエンドにしながらも作者は「愛」が大事と思って描いている場合は「アイロニックエンド(Ironic)」と呼べるでしょう。「お金が大事」と言ってるようで、本心ではまったく思っていない皮肉なのです。
「経済力でプラス4」「愛でマイナス5」ぐらいで描いてしまうと、皮肉なのか本気なのかわからなくなってしまいます。作者がむりやりハッピーエンドにしようと持っていっているようにも見えるかもしれません。本当に作者が「愛」の価値を低く見積もっていて、そのように描いてしまっている場合もあるかもしれません。価値観で自由なので、構わないといえば構わないのですが、作者の意図と、観客・読者との受け取りにはズレが生じるかもしれません。
では「プラス5」「マイナス5」でゼロになるストーリーでは、どうでしょうか?
「経済力」と「愛」は価値の階層が違うので比較できません。
階層については、すこし補足します。
経済力は外的で、金額で表せます。
たとえば、誰かの服を汚してしまえば相当のクリニーング代を払ったり、モノを壊してしまえば相応の金額を支払うでしょう。
「損失>補償」であれば損した(ネガティブ)だし、「損失<補償」で新しいものを買い替えられたなら結果として得した(ポジティブ)と言えることも多いでしょう。
このように「経済力」というストーリー価値であれば、ポジティブエンドかネガティブエンドかは明らかなのです。
では慰謝料はどうでしょうか?
もちろん法律上の基準はあれど、いくらで損得と言いきれるでしょうか? 人によって違います。
家族を失った哀しみなどは、お金では埋められないでしょう。
これが階層が違うという意味です。
では「愛」と同レベルの階層として、たとえば「命と引き換えに、大切な人を失った」ではどうでしょうか?
たとえば『ソフィーの選択』のような「自分の命と、娘の命」を選ばなくてはいけなかったら?
おそらく、どちらを選んでも「得るもの」と「後悔」があるのではないでしょうか。
主人公がどっちを選んだとしてもハッピーエンドかバッドエンドかという印象は、それぞれでしょう。
こういったエンドを「グレーエンド」と読んでいます。これも造語です。なぜグレーと呼ぶかが気になる方は、こちらの記事をご覧下さい【灰色の物語】(文学#26)。個人的に目指すところでもあるから命名して「グレーエンド」と呼んでいます。あくまでプラス/マイナス、ポジティブ/ネガティブの感覚は主観なので、どの作品がグレーエンドになってるとは決めがたいので、あくまでクロスエンドの一種として数えます。
エンディングはポジティブとエンドの2種類。
それが正反対に合わさったクロスエンドの大きくわけて3種類があることになります。
感覚としては「ハッピー」か「バッド」か「どちらとも言いきれない」かの3つです。
ちなみに「お金持ちになって、愛も得た」ような大ハッピーエンドもありますが、数値でいえば「プラス5」と「プラス3」で合わせて「プラス8」のようになるだけで、感覚としては「ハッピー」なのは変わりません。
エンドマークをつけること
すべてのエンドに共通することですが、物語を終わらせるということはエンドマークをつけることです。作者が「この話はここまで!」とケリをつけることです。演劇でいえば「幕を下ろす」といいます。
シェイクスピアはよく人生を劇に喩えましたが、人生であれば「死ぬ」ことがエンドです。
主人公の一生を追っているようなストーリーであれば、その主人公が死ねば、物語も終わります(エピローグはつくかもしれませんが)。
しかし、そうでない物語では作者が「エンドマークをつける」ことになります。
「塞翁が馬」という故事成語があります。
広辞苑の引用をしておきます。
塞翁が馬 (さいおうがうま)
[使い方]
人生の幸不幸は予測しがたいことのたとえ。
「くよくよするな。塞翁が馬というように、悪いことばかりが続くものではない」「そう喜んでばかりはいられない。人間万事塞翁が馬だ」
禍福(かふく)に一喜一憂するのは賢明ではないとしていう。「人間(にんげん・じんかん)万事塞翁が馬」とも。
[誤用]
「が」は所有を表す格助詞。意味は同じだが「塞翁の馬」とはしない。
[出典]
「淮南子(えなんじ)・人間訓」の故事に基づく句。昔、中国の北辺の塞(とりで)近くに住んでいた占いの巧みな老人(塞翁)の馬が胡(こ)の国に逃げた。気の毒がる隣人に老人は「これは幸福の基になるだろう」と言ったところ、やがてその馬が胡の駿馬(しゅんめ)を連れて戻ってきた。隣人がそれを祝うと、老人は「これは不幸の基になるはずだ」と言った。老人の家は良馬に恵まれたが、騎馬を好む老人の子が落馬して足の骨を折ってしまった。隣人がそれを見舞うと、老人は今度は「これが幸福の基になるだろう」と言った。一年後胡軍が大挙して侵入し、若者のほとんどが戦死した。しかし、足を折ったその子は戦わずに済んだので、親子ともども無事であったという。
太字の部分があらすじですが、どこにエンドマークをつけるかで「ポジティブエンド」にも「ネガティブエンド」にもなります。
最初の「馬が逃げてしまった」というところで終われば、ただの残念な「ネガティブエンド」ですし、「駿馬を連れて戻ってきた」ところでおわればラッキーな「ポジティブエンド」です。このくり返しで、全体としては「ハッピーともバッドとも言いきれない」と言えます(アークが1本しかないのでクロスはしていませんが)。
これは人の一生でも同じことが言えます。「生きている限り……」「諦めない限り……」なんて励ましの文句がありますが、物語が終わったあともキャラクターが生きていることを考えれば、その後、ずっと幸せかどうかはわかりません。
昔話では「末永く幸せに暮らしました」という、その後のハッピーも保証していますが、現代ストーリーでは使いづらいでしょう。
では、どこでエンドマークをつけるのか?
結論をいえば、アーク図のうち二つ目の山(右側の山)は頂上まで行かないところで切るということです。
頂上についてしまうと「下山」を連想させます。
手前で止めれば「頂上にたどり着くことは間違いない」と感じるでしょう。
止めるのが早すぎると「この勢いでたどり着くのか?」と不安や疑問が残ります。上る勢いが弱い場合も同様です。
たとえば、前回も例にあげたシンデレラ。
シンデレラがガラスの靴につま先を通して、王子様からプロポーズを受ける。
シンデレラが「はい」と答える。
その後、結婚式、披露宴、パレードなど、これでもかと、ハッピーシーンが続いたらどうでしょう?
そんなシーンが15分もつづいたとしたら?
映像に魅力があれば、耐えられるかもしれませんが、ストーリー的に変化がなければ「ハッピーエンド」は変わりません。これは頂上まで描きすぎる、止めるのが遅すぎる例です。
では、プロポーズを受けて、「はい」と答えるシンデレラ。ここで止めてしまうのはどうでしょう?
あとは言わずもがな。「結婚式のシーン」がなくても、ハッピーエンドになるは伝わります。さらに前で止めて、「はい」と答えず「嬉しそうなキラキラした目で見つめ返す」だけでもOKの意味は伝わるかもしれません(演技力や演出が必要ですが)。ただし、いずれにせよクライマックスなんだから「もう少し見たかったな~」という気持ちが残りそうです。止めるのが早すぎるのです(観客のカタルシスに欠けます)。これは早すぎる例です。
民話のような結末がはっきりした例であれば、考えやすいのですが、意外とやってしまいがちなのは「ビッグフィニッシュ」を終えてない止め方です。
たとえば、オリジナルエピソードとして「シンデレラがガラスの靴の持ち主だとしった姉が、邪魔をする殺し屋をやとった」とします。その殺し屋がどうなったかも描かずに結婚式をして終わってしまったら、どうでしょう?
観客の感想は、次のようなものになるのではないでしょうか?
「さいごに殺し屋が出てくるのかと期待していたのに」
「作者、殺し屋のこと忘れてない?」
「そもそも、あのエピソード自体いらなかったんじゃない?」
未解決、未処理のエピソードがあるうちは「ビッグフィニッシュ」とはいえません。
「観客の想像に任せる」というのは十中八九、創り手の思い込みか言い訳です。きちんと「エンドマークをつける」ことは、作者の責任です。
キャラクターが生き続けるかぎり、人生が続きます。
たとえば「この主人公は、ここではバッドエンドでも、10年後にはハッピーになるんだ」なんて思うのであれば、そこまで書いて「エンドマークをつける」べきです。
その物語を通して、何を描きたいのか? 何を伝えたいのか?
すべてを描ききって「エンドマークをつける」べきです。
その判断基準は、作者の主観ではありますが、その物語の「ストーリー価値」が何なのか?ということにも関連します。
エンディングを決めるもう一つの要素が「リワード」です。これについては次回。
緋片イルカ 2020/05/25
次回 → 「リワードというビート」(6/8公開)