プロットの形式①プロットの尺度(中級編14)

この記事はミニプロットについて(中級編13)からのつづきです。

目次:
①プロットの尺度
②「クローズド・エンディング」と「オープン・エンディング」
③「外的葛藤」と「内的葛藤」
④主人公の数
⑤キャラクターコアとwant
⑥時間の扱い
プロットの形式⑦「因果」と「偶然」

以下に述べる考え方はロバート・マッキーの『ストーリー』に刺激を受けた部分が多くありますが、解釈が異なる部分もありますので、ご注意ください。あくまで私論です。

プロットの度合い

前回の記事で、アークプロットとミニプロットの違いを考えましたが、今回はもう少し掘り下げてみます。

まず、この2つのプロットは「これはアークプロットだ」「これはミニプロットだ」というように、白黒はっきり区別できるものではなく、数直線上の尺度の違いだと捉えてください。

僕のイメージは以下のようになります。

プロットの度合いとは、言い換えるなら「物語化(ドラマタイズ)の度合い」ともいえます。

詳しく見て行きましょう。

ノンプロット

数直線上の原点(ゼロ)=プロットがない=ノンプロットは現実の日常です。

たとえば、ある人物の1日24時間を撮り続けたとします。この24時間の記録を見ようとしたら、見る方も24時間かかってしまい不便です。

そこでダイジェスト版を作るとします。面白いシーンを選び、不必要なシーンはカットして、2時間に収めたとします。

すると編集意図が入った一つの作品になります。別の人が編集すれば、まるで違う作品ができるでしょう。

これがプロットによるドラマタイズです。

作者が無自覚であっても、情報を取捨選択した時点で、何らかの意図が含まれてしまうのです。

ストーリーに起伏がなくても、作者がそのシーンを選んでいることから、読者・観客は何かを読み取ろうとします。あるいは、リテラシーの低い人は読みとれないがために「つまらない」「何を伝えたいのかわからない」などと言います。

ノンプロットの物語作品というのは理屈上ありませんが、極めてノンプロットに近いものが日記やドキュメンタリーです。

ちなみにドラマタイズの方法はプロット以外にもあります。


(参考:ストーリーサークル

同じニュースでも、良く言うか悪く言うかで変わりますし(視点)、それは言葉の選び方にも現れます(描写)。

とりあえず、この記事ではプロットの形式についてなので、ドラマタイズ=プロットとして扱います。

「日常を切りとる」といった言い方がありますが、読者・観客を意識して、積極的にプロットを入れていくことで、物語作品ができていくのです。

ミニプロットとアークプロット

日常でびっくりするようなことや、出来すぎた状況に出会ったりすると「映画みたい」「マンガみたい」などと言ったりしますが、まさに日常に物語性を感じた瞬間でしょう。

意図的にプロットを入れていくことは、物語をつくっていくことでもあります。

ドラマタイズの度合いを、プラスの数値として考えて、プラスの方向(右)へ進むほど「物語らしい」と考えてみます。

まず、+1に置いたのが「ミニプロット」です。

ささやかな物語、小さな物語、ミニマムなプロット、それがミニプロットです。

前の記事でも書きましたが、映画でいえば、日常の中のささやかなドラマ、現実に近いリアリティなどが描かます。ドキュメンタリーは編集やナレーションによって、作り手のメッセージが明確にされていればミニプロットの一種です。

また複数主人公による群像劇=マルチプロットも、ミニプロットの進化型です。

興味のない内容のドキュメンタリーを苦痛に感じるのは、プロットが小さいからとも言えます。

プロットが小さいとは、声が小さいようなものです。聴き手が積極的に耳を傾けなければ、かき消えてしまうのです。

一方、声が大きい、すなわち明確なメッセージをもったプロットがアークプロットです。+2に置きました。

1と2の差は、メッセージを伝える強さの違いです。

アークプロットでは、すべてのシーンが一つのテーマに基づいて厳選されているのが理想です。一つのシーンすらムダなものはないのです。

だからこそ強力にメッセージが伝わります。

プロパガンダもアークプロットの構造をもっています。

「我が国は善、敵国は悪。悪は滅ぼさなければならない」という価値観に彩られ、主人公は敵国を破る英雄として描かれます。

敵に同情の余地もありません。敵は、もはや人間ではないのです。

極端に感じるかもしれませんが、勧善懲悪型のストーリーには、この傾向があります。

破壊的なエイリアンの侵略から地球を守るようなストーリーでは、同情することなくエイリアンを絶滅させるでしょう。

中にはエイリアンを可哀想という人もいるでしょうが、それは描写次第です。エイリアンと心通わすようなシーンを入れてしまえば、そう思われてしまいますが、ただ破壊的で、知能もない脅威でしかないエイリアンとして描けば、同情する人は極めて少ないでしょう。シーンの取捨選択です。

(※余談ですが、どんなにエイリアンを脅威として描いても、可哀想という人は必ずいます。それこそ多様性で、そういう人の存在を無視してはいけないと思います。しかし、そういうメッセージを物語にしたいのであれば勧善懲悪型のプロットではないプロットを使うべきです。つまり『エイリアン』ではなく『E.T.』を書けばいいのです。勧善懲悪型のプロットを使っているのに、中途半端に同情できるシーンを入れてしまうのは深みでも、多様性でもなく、ただのテーマのブレです。逆を言えばETがエイリアンとして人間を襲っていたら友達になれますか?ということです。プロットの性質を理解せずに、自分好みのシーンを入れるのはミニプロットではなく、ブレたアークプロットに過ぎません)。

前述したように、ドラマタイズはプロットだけの問題ではないので、作者の「視点」や、キャラクターの「描写」に寄って変わります。

プロット上では「戦争で成果を上げていく英雄」を扱っていても「描写」が正反対であれば、それは皮肉として扱っているのです。(例えば『帰ってきたヒトラー』)

プロットと、テーマや視点を切り離して考えるようにしてください。

アークプロットとミニプロットの違いは、あくまでメッセージを伝える強弱の違いです。

どんなメッセージを込めるにしても、強烈に観客に訴えかける作りがアークプロットです。それゆえ、プロパガンダにも商業エンターテインメントにも有効なのです。

アンチプロット

数直線の原点=0から、プラスの方向へドラマタイズする方向を見てきましたが、マイナスの方向はどうでしょう?

マイナスの世界を、まとめてアンチプロットと呼びます。

「アンチ」というぐらいですから、アークプロットに対してのアンチです。

ネット上で誰かを攻撃するアンチも、あまり執拗になると、嫌いじゃなくて、もはや好きなんじゃないかと見えてくることがありますが、それに似ています。

アンチプロットはアークプロットありきの世界です。

例えば「家族と和解して感動」というベタな展開があるとしたら、アンチで「和解すると思ったら大げんか」にする。

これがシーン単位であれば、意外性のある展開程度になると思いますが、アンチプロットは物語の構成全体で、それをやってしまうことです。

通常の映画では、物語は時間軸通りに話が進むと暗黙の了解があります。それを崩す。

主人公が一人もいない。群像劇とは違います。主人公が複数人いるのが群像劇ですが、アンチプロットにするなら、もはや誰が主人公かすらわからない、いない。

こんな風に、ドラマタイズの逆をいき、物語そのものを崩してしまうようなプロットがアンチプロットです。

もはや物語としての体を成していないので理解するのは困難ですが、アークプロットへの理解がある人には、アンチとしての理解が可能です。

アンチプロットには、物語に対する問いかけやヒントが含まれています。

「主人公がいない物語」を見ることに、アークプロットの「主人公は一人でなければいけない」という呪縛から解き放たれるヒントがあるのです。

ただし作品としては、面白味はありません。むしろ、日常=ノンプロットの平凡さを通り越した、理解不能さがあります。だからマイナスの世界なのです。

見るのに苦痛を伴ったり、もはや、その苦痛をあえて楽しむようなマゾヒズム的な楽しみしかないような作品も多くあります。

どういうものか気になる人のために一例だけ示しておきます。

『アンダルシアの犬』グロテスクな描写もあるので、自己責任でご視聴ください。

アンチプロットは、アークプロットの対置としてあるので、-2に置きました。

-1程度のアンチでは、意図的にやっているのか、作者の腕が未熟で、ただストーリーが破綻して意味不明になっているのかわかりません。

アンチプロットは、アークプロットを理解していなければ作れないのです。

これも、ネット上のアンチが、やたら攻撃対象の人について詳しかったりするのと似ている気がします。

ミニプロット以上であること

ミニプロット以上であることは、物語作品の最低基準です。数値でいえば+1以上です。

ゼロすなわち日常の記録に近寄りすぎると、作品としての面白味が減少します。

1未満の0.3ぐらいの物語は、素人の「面白い話」です。ほとんどの場合、本人以外、面白いと思っていません。

もちろん個人的な日記や趣味で書いているものであれば、何だって良いのです。

商業ベースに乗るかどうかの違いだけで「物語としての価値」には、高いも低いもないと僕は考えます。すべての人の、すべての物語(それは人生そのもの)には価値があります。

手作り料理のようなもので、自分や親しい人のために作った料理が、味付けが薄くても、焦げてしまっても、いいと思うのです。

けれど、レストランでは出せません。

コンクールの応募や商業作品として物語を書こうとするのであれば、超えなくてはならない最低基準があるという話です。

それがミニプロット以上です。

※かなりの余談ですが……素人は、このサイトのような小さな規模でやっていればいいのですが、多くの人の目をつく場=投稿サイトのようなところへアップすると、批判の目にさらされます。中にはプロの、商品としての物語を読むような視点で「面白い」とか「つまらない」とか言う人がいます。プロを目指しているのであれば、厳しい批評が、鍛錬の場にもなるでしょうが、自分の楽しみとしてあげている人にとっては耳障りでしょう。このサイトの内容は、最近はプロ志向で書いているつもりですが、楽しみだけで書いている人がヒントにして「面白い」と言われるきっかけになってくれたりしたら、お役に立てて嬉しいと思ったりもするのです。面白いと思われたいなら書き手として技術を磨いてほしいし、書くことが楽しみであるだけなら、ごく親しい人以外には、自分の作品を押しつけないことだと思います。他人に読ませるということは、相手の人生の時間を奪うことにもなりかねません。相手の、貴重な時間を楽しませる自信があるのなら「読んで」と言えばいいと思うのです。

アークプロットから学べ

アークプロットはメッセージを強烈に伝えるため、ムダがないと言いました。

これは、反面、遊びが少ないともいえます。世界を単純化しているようにも見えるのです。ときに幼稚とか、薄っぺらさにも見えます。

すると日常に近いミニプロットが、人生の深みや味わいを感じさせる魅力的な物語に見えてきます。

たとえば「人生で一番大切なものは家族だ」というメッセージの物語があったとします。

このメッセージは一般的ではありますが、アークプロットで強烈に描かれていると、家族像に合わないマイノリティの人は反感を覚えます。価値観の押しつけに感じるのです。

そこで「家族だけではない」というメッセージを盛り込みます。すると、せっかくの「家族が大切」というテーマが弱まってしまいがちです。主人公やテーマがブレてしまうのです。

主人公を増やして、マルチプロットにする方法もあります。2人の主人公をつくって「家族が大切」と「家族だけじゃない」というテーマを背負わせるのです。

多様性の時代でもあり、現代は、こういった物語が好まれる傾向があり、作り手もこういったミニプロットの物語を書きたがります。

けれど、多くの物語が失敗しています。

方向性は悪くないのですが、技術が未熟なのです。

ロバート・マッキーの『ストーリー』から引用します。「古典的設定」「古典的形式」はアークプロットと読み替えて問題ありません。

ミニプロットとアンチプロットは、アークプロットから生まれた――一方はそれを縮めたもので、もう一方はそれを否定したものだ。
(中略)
すぐれた語り手は、どんな観客も――経歴や教養がどうあれ、意識的にしろ無意識にしろ――古典的設定を予測しながらストーリーの儀式へはいっていくことを知っている。だから、ミニプロットやアンチプロットを成功させるには、この予測に沿うか抗うかする必要がある。作り手が古典的な形式を注意深く独創的に打ち砕くか、ねじ曲げるかしなければ、観客はミニプロットに隠された内面生活を理解したり、アンチプロットの寒々とした不条理を受け入れたりできない。しかし、自分で理解できていなければ、脚本家はどうやってそれを独創的に縮めたり、裏返したりできるのだろうか。
(中略)
映画をたくさん見ているからと言って、アークプロットを理解しているなどと勘ちがいしてはいけない。自分で書けてはじめて、理解したと言えるのだ。

一言でまとめてしまえば「アークプロットが書けない作家には、ミニプロットは書けない」です。

このことを精神論ではなく、技術的に説明してみます。

多くの若い作家が書きたがりがちな群像劇=マルチプロットを例にあげてみます。

アークプロットでは一人の主人公のキャラクターアークを2時間かけて描きます。数値でいえば+2の物語としてみます。

主人公が二人いるマルチプロットでは、1時間で二人描かなくてはいけないことになります。1×2=2の物語で、同じです。

しかし、1.6のアークプロットしか書けない人が、同じ事をしたらどうでしょう?

0.8×2=1.6です。合計は同じようですが、問題は1本が0.8しかないことです。ミニプロット未満です。

こういう物語を見た読者・観客の感想は「もう少し登場人物を整理して、一人一人のドラマをしっかり描いてほしかった」でしょう。実際に同じような感想を抱いた作品がありませんか?

それはキャラクターアークが描けていないことが原因なのです。

2時間で+2のアークプロットが書ける人でも、それを1時間で描くのは大変です。

「家族なんかいらないと思っていた主人公が、大家族の家に同居することになって、家族は大切だ」と思うという展開で「家族が大切」というテーマとして伝えようとしたとします。

それを2時間でやるのと、1時間でやるのと、どっちが楽か?と考えてみてください。

もちろん2時間です。(2時間だと書く量が多くなるのが大変という考えは基礎体力不足で問題外です)

1時間でやろうとするとシーンを厳選しなくてはいけません。

キャラクターアークに必要なシーン、これこそビートです。

ビートがわかっていない人が群像劇を書くと、わちゃわちゃするだけになります。

誰かのアークが動きだしたかと思ったら、別の人物に視点を動かしてごまかしていたりします。

商業作品でも、クライマックスだけ盛りあがりがあって、成立しているように見えても、アークが描けていない作品がたくさんあります。

この記事の前半で、日常からシーンを切りとることがプロットによるドラマタイズだと書きました。

面白いシーンを切りとるには、何が面白いかを判断する力がいります。

その判断力をシャープにしていくとアークプロットの+2に近づいていきます。ムダがなくなってくるのです。

面白いさを判断して、ムダをカットする能力が身につけば、1時間に縮めてミニプロットを作ることもできるのです。

少し、説教くさくなりましたが、このサイトではアークプロットについては初級編として扱っています。

この記事を読まれている方は、アークプロットは理解していると思いますので言うまでもなかったかもしれません。

次は、ミニプロットの作り方やポイントについて具体的に考えていこうと思います。

緋片イルカ 2022/02/16

次→プロットの形式②「クローズド・エンディング」と「オープン・エンディング」(中級編15)

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