描写を考える④世界観と言葉選び(文章#34)

前回のおさらい

前回の記事では、言葉を選ぶときには「作者」「人物(キャラクター)」「読者」という三つの視点から選ぶ必要があることを考えました。

たとえば「冷酷なプロの殺し屋」というキャラクターの描写なのに、

(例文1)
俺は即座に仕事に取りかかった。男にスッとナイフを差し込んだのだ。男は膝から崩れ落ち、ナイフを抜いた腹から血が噴き出した。鳥肌が立つ。人が死ぬ姿は、何度見ても、吐き気がする。

こんな、描写は不自然でしょう。何度も殺しをしているプロの殺し屋が、血を見て吐き気を催すというのは違和感があります。「人物(キャラクター)」の設定として不自然ですし「読者」も「冷酷なプロ」とは見てくれないでしょう。いくらハードボイルド調でかっこつけても殺し屋としての魅力がありません。これは「作者」が設定やキャラクターの心理を考え切れていないため、作者自身の視点が前に出てしまっているのです。

(例文2)
俺は即座に仕事に取りかかった。男にスッとナイフを差し込んだのだ。男は膝から崩れ落ち、ナイフを抜いた腹から血が噴き出した。鳥肌が立つ。吐き気がする。男の血が、俺の白いシャツに散ったのだ。どうやら、刺す込む角度がズレたらしい。

吐き気の原因が「血を見たせい」ではなく「シャツに血がついた」のであれば、それはひとつの「人物(キャラクター)」になりますし、「読者」にもこの男の「美学」が伝わるかもしれません。もちろん、この思想は「作者」自身のものではありません。

今回は、三つの視点に加えて「世界観」という視点から、言葉を選ぶことを考えていきます。

セリフと世界観

作品を貶める意図はありませんが、最近見て、違和感をもった例として印象に残っていたので具体例として挙げさせてもらいます。ファンの方には不快かもしれませんが、放映されたアニメ=プロの作品でもあるので遠慮なく使わされていただきます。

二例、挙げますが、どちらもアニメ『不滅のあなたへ』第4話からの引用です。Amazon Prime会員なら無料で見られますので、気になる方はご確認ください。

第4話 大きな器

(7:07あたりのシーンからの引用)
『よくわかんないけど、マーチはとってもハッピーよ』

このセリフは、マーチという少女が励ましとしてかける言葉です。ポジティブで、周りを元気にしようとする少女のセリフです。

しかし、この作品の舞台は、明確な日本ではないとはいえ、弥生時代を思わせる和風ファンタジーです。キャラクターの名前や「鬼熊(オニグマ)」といった和風の名称がもちいられているのに、唐突に「ハッピー」という英語を少女が使います。歴史上の日本としては設定されていないので、このアニメの中の世界では「ハッピー」という言葉が使われているとしても、雰囲気に合いません。

雰囲気に合わない時点で、観客は違和感をもちます。

観客が違和感を持つと、物語の世界から気持ちが離します。「ん?」と思った時点で、思考が働き、せっかく浸っていた物語の世界から一歩退いてしまうのです。

違和感が何個もあれば、物語から、だんだんと遠ざかり、さいごには、これ以上は、もう見たくないと感じてしまうでしょう。

この「ハッピー」というセリフが原作者によるセリフか、アニメ版の脚本家によるセリフかは知りませんが、この作品は言葉選びがとても雑です。

次は、この数分後のシーンで、文字や手紙という文化を持たない村(ニナンナ)の出身者であるマーチが、町(ヤノメ)で「手紙屋」に出会ったという場面です。

(9:00あたりのシーンからの引用)
ハヤセ「ニナンナには文字の文化はありません。その手紙に書かれた文字、マーチ様の御父様も御母様も理解できませんよ」
マーチ「でも、マーチ、別の文字知ってるし」
ハヤセ「ほう、どんなものです?」
マーチ「これよ」
 (マーチは紙に掌をおしつけ、手形をつける)
ハヤセ「それ、何て書いてあるのです?」
マーチ「マーチは元気よ、って意味よ」

「文字の文化」を持たない村の人間が、初めて「文字」と聞けば、ふつうの思考回路であれば「モジ? ナニソレ?」でしょう。

それがマーチは、瞬時に「文字の概念」を理解し、代用として手形を押します。

このシーンではさらに、少女マーチと同じ村出身の女性(つまり文字を知らない女性)が自然に「住所」という言葉を使ったりするのも不自然ですし、そもそもハヤセというキャラも少女を連行している途中なのに、手紙屋などに寄っていることすら不自然です。

こういう展開は「作者」の思惑や思考が「人物(キャラクター)」よりも優先されてしまっているのです。いわゆるご都合主義です。

こういった一言一言が、キャラクターや世界観を崩して、観客の気持ちを物語から離れさせるのです。

SFやファンタジーといった特別な世界観であっても、何でも許されるわけではないのです。

「世界観」という視点からセリフを選ぶときには、キャラクターの内面や性格だけでなく、その世界における文化や知的レベルなどまで考慮する必要があります。(参考:「キャラクターの構成要素」

地の文と世界観

セリフではなく、地の文ではどうでしょうか?

(例文3)
 宿の主人は、男の袖に縫い付けの跡を見つけて訊ねた。どこか胡散臭いと思ったのである。
「あんた、仕事はなにしてるんだ?」
「へい、あっしは物語をしております」
 江戸時代には古い合戦の話をして投げ銭をもらう物語という職業があった。今でいうところの講談師みたいなものである。

江戸時代の小説において「講談師」という例えは、それほど違和感がないと思います。

「紙芝居屋」とか「活動弁士」なども合いますが、残念ながら「今で言うところ」には当てはまりません。伝われない可能性もでてきます。

「講談師」でも、寄席に馴染みのない人には、あまり伝わらないかもしれません。

では、若い人に向けて、次の例文ではどうでしょうか?

(例文3)
 宿の主人は、男の袖に縫い付けの跡を見つけて訊ねた。どこか胡散臭いと思ったのである。
「あんた、仕事はなにしてるんだ?」
「へい、あっしは物語をしております」
 江戸時代には古い合戦の話をして投げ銭をもらう物語という職業があった。今でいうところのyoutuberみたいなものである。

説明としてはyoutuberの方がわかりやすい人がいるかもしれません。

とくにラノベや若い人向けの時代小説であれば構わないかもしれません。

アルファベットによる横文字は、明らかに江戸時代の雰囲気は壊していますが、説明の伝わりやすさという点では文章の目的を達成しています。

とはいえ、読者の気持ちが「江戸時代」から「現代」に引き戻されることは間違いありません。歴史小説好きのオジサマなら、ネチネチ怒るかもしれません。

地の文による言葉選びは、とくに説明的な文章での言葉選びは、セリフほど「世界観」を壊す原因にはならないと思います。

誰に向けて、作品の「世界観」を作っていくかによると言えそうです。

※脚本の「ト書き」であれば、言葉選びを考慮する必要はないと言えます。伝わりやすさ優先でしょう。ただし、応募用の脚本や演出家とコミュニケーションがとれない場合は書き方を工夫する必要はあります。

「ムード」と世界観

誰に向けて「世界観」を作っていくかということは、ストーリーエンジンにも影響します。

ストーリーエンジンについては別記事を参照いただきたく思いますが(参考:「ストーリーエンジン」、このうちの「リズム」や「ムード」は、言葉選びから生まれてくると言えます。

さいごに青空文庫から二つ引用しておきます。今さら、素晴らしさを取りあげるまでもない作家ですが「リズム」や「ムード」という観点から読んでみると、その魅力が一段とわかると思います。

一つ目は「リズム」です。

十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった。
 文鳥は三重吉の小説に出て来るくらいだから奇麗な鳥に違なかろうと思って、じゃ買ってくれたまえと頼んだ。ところが三重吉は是非御飼いなさいと、同じような事を繰り返している。うむ買うよ買うよとやはり頬杖を突いたままで、むにゃむにゃ云ってるうちに三重吉は黙ってしまった。おおかた頬杖に愛想を尽かしたんだろうと、この時始めて気がついた。
 すると三分ばかりして、今度は籠を御買いなさいと云いだした。これも宜しいと答えると、是非御買いなさいと念を押す代りに、鳥籠の講釈を始めた。その講釈はだいぶ込み入ったものであったが、気の毒な事に、みんな忘れてしまった。ただ好いのは二十円ぐらいすると云う段になって、急にそんな高価のでなくっても善かろうと云っておいた。三重吉はにやにやしている。
 それから全体どこで買うのかと聞いて見ると、なにどこの鳥屋にでもありますと、実に平凡な答をした。籠はと聞き返すと、籠ですか、籠はその何ですよ、なにどこにかあるでしょう、とまるで雲を攫むような寛大な事を云う。でも君あてがなくっちゃいけなかろうと、あたかもいけないような顔をして見せたら、三重吉は頬ぺたへ手をあてて、何でも駒込に籠の名人があるそうですが、年寄だそうですから、もう死んだかも知れませんと、非常に心細くなってしまった。
 何しろ言いだしたものに責任を負わせるのは当然の事だから、さっそく万事を三重吉に依頼する事にした。すると、すぐ金を出せと云う。金はたしかに出した。三重吉はどこで買ったか、七子の三つ折の紙入を懐中していて、人の金でも自分の金でも悉皆この紙入の中に入れる癖がある。自分は三重吉が五円札をたしかにこの紙入の底へ押し込んだのを目撃した。
 かようにして金はたしかに三重吉の手に落ちた。しかし鳥と籠かごとは容易にやって来ない。(『文鳥』夏目漱石)

『草枕』とか『坊っちゃん』とか有名な書き出しに限らず、漱石の「リズム」は漢文的でリズミカルです。多少、漢字が現代人には読みづらいところがありますが、意味と読み方がわかった上で、声に出して読んでみると、まさに講談のようにスルスルとストーリーが入って来ます。「懐中していて」とか「悉皆(※しっかい/みな、ことごとく、といった意味)」などの言葉使いも、漢文調に合っています。全文、ふりがな付きで読みたい方はこちら→『文鳥』夏目漱石(青空文庫)

もう一つは、言葉選びによって「ムード」が作られています。

 天の川の西の岸にすぎなの胞子ほどの小さな二つの星が見えます。あれはチュンセ童子とポウセ童子という双子のお星さまの住んでいる小さな水精のお宮です。
 このすきとおる二つのお宮は、まっすぐに向い合っています。夜は二人とも、きっとお宮に帰って、きちんと座り、空の星めぐりの歌に合せて、一晩銀笛を吹ふくのです。それがこの双子のお星様の役目でした。
 ある朝、お日様がカツカツカツと厳かにお身体をゆすぶって、東から昇っておいでになった時、チュンセ童子は銀笛を下に置いてポウセ童子に申しました。
「ポウセさん。もういいでしょう。お日様もお昇りになったし、雲もまっ白に光っています。今日は西の野原の泉へ行きませんか。」
 ポウセ童子が、まだ夢中で、半分眼めをつぶったまま、銀笛を吹いていますので、チュンセ童子はお宮から下りて、沓をはいて、ポウセ童子のお宮の段にのぼって、もう一度云いました。
「ポウセさん。もういいでしょう。東の空はまるで白く燃えているようですし、下では小さな鳥なんかもう目をさましている様子です。今日は西の野原の泉へ行きませんか。そして、風車で霧をこしらえて、小さな虹を飛ばして遊ぼうではありませんか。」
 ポウセ童子はやっと気がついて、びっくりして笛を置いて云いました。
「あ、チュンセさん。失礼いたしました。もうすっかり明るくなったんですね。僕今すぐ沓をはきますから。」
 そしてポウセ童子は、白い貝殻の沓をはき、二人は連れだって空の銀の芝原しばはらを仲よく歌いながら行きました。(『双子の星』宮沢賢治)

この文章に出てくる特徴的な名詞を抜き出してみますと「すぎなの胞子」「水精のお宮」「空の星めぐりの歌」「銀笛」「西の野原の泉」「白い貝殻の沓(※靴です)」。どれも「双子のお星様」の世界観とぴったり合っています。「風車で霧をこしらえて、小さな虹を飛ばして遊ぼう」なんていう遊びも、独創的です。エスペラント語に詳しく、岩手を「イーハトーブ」と呼ぶ賢治による言葉で作られる「世界観」です。全文、ふりがな付きで読みたい方はこちら→『双子の星』宮沢賢治(青空文庫)

引き続き「描写を考える」シリーズは週一ぐらいで、とりとめもなく書いていく予定です。

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緋片イルカ 2021/06/26

描写を考える⑤文章リズムとウェルニッケ中枢(文章#36)

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