映画『私ときどきレッサーパンダ』(三幕構成分析#131)

https://amzn.to/42KIjcy
※あらすじはリンク先でご覧下さい。

感想・構成解説

CGアニメはシンプルな構成ながら、近年は脚本上で失敗している映画が多いと感じます

演出やテンポがいいので脚本に意識が向かない人には「そこそこ面白い」と紛れてしまいますが、全盛期のピクサー映画に及ばないところは、明らかにいくつもあります。

そのあたりを検証していきます。

【ビートシート】

「好き」3 「作品」4 「脚本」3

アクト1

「オープニングイメージ」「ファイナルイメージ」:ファーストショットは主人公メイが跪いて、母に尽くしている写真。ラストショットはレッサーパンダのまま家族、友達、アイドルと一緒に映った写真。2枚の写真で変化は見え、機能しているようには見える。良くも悪くも、この作品で起こっている変化はこの程度でしかないということ。一時期のピクサー映画は、子ども向けアニメでありながら大人にも刺さるきめ細やかさがあったが、この作品は幼稚な印象。ターゲットが小中学生女子に絞ってしまっているとしたら、逆にそういった要素を拾えているか考えなくてはならない。主人公は中学生に設定されているが、キャラのデフォルメと、精神性などが小学生じみて見える。中学生女子はターゲットとして狙いきれていない印象。日本でいえば『りぼん』とか『ちゃお』といったレベル。

「主人公のセットアップ」:冒頭のモノローグで主人公のセットアップをしてしまうのはCGアニメの常套パターン。上質ではないが、わかりやすいし子ども向けとしては悪くない。モノローグで「私はやりたいことをやる」というポジティブな性格が示される。しかし、この主人公のキャラクターコアは「母に従っている」ところにあり、トップシーンのモノローグではそこまで示し切れていない。カラオケの誘いを断り、友達に「親に洗脳されてる」と呟かれ、再度モノローグが入り「何でも自分で決断するけど、ママの決断に従ってることもある」というところでようやく機能する。(CQ:「メイは自立できるか?」が発生する)。セオリー通りなCG映画では冒頭モノローグで「でも、本当は~〇〇したいんだ」ぐらいのところまで言ってしまうこともあるが、演出やキャラにもよるので一概どちらがいいかという問題ではないが、セットアップ終了が7分8%はかなり遅い。映像的には動きがあるので、テンポが悪くは感じないが、ストーリー上はかなりムダが多い。

「ジャンルのセットアップ」:この映画の「4タウン」というアイドルグループや音楽をどこまでフックとして活用するかによる。現状は、ただのテーマソング+ストーリー上のキャラクターでしかない。「フック」とするには音楽シーンも少ないし、主人公を紹介すると同時にセットアップするべき。オープニングクレジット中と、セリフと部分的な情報としては小出しにしているが、しっかりとジャンルとしてセットアップすればアクト3もだいぶ印象が変わっただろう。逆に母娘のドラマとしてのジャンルをセットするのであれば「学校での様子」と「寺での様子」(母のいる/いない)でのギャップを演出するべき。ノリやテンポが同じなので、母娘ドラマが設定としてしか響いてこない。感情的に響いてこないため、共感もしづらい。

「カタリスト」「ディベート」「デス」「プロットポイント1」:選択肢として、以下のビートのとり方がありえる。

「カタリスト」:母にノートが見つかる(13分87%)

「ディベート」:恥ずかしい気持ち(この作品の原題はTurning Red)

「デス」:レッサーパンダになる(17分19%)

「PP1」:レッサーパンダ生活開始(=ニット帽を被って登校)(20分22%)

演出上もこうなっているが、いくつかの問題点がある。まずカタリストが13分では遅すぎる。カタリストの機能は「きっかけ」でありながら「最初の事件」という印象、「物語が動き出した!」という印象を与えることである。この作品では「母にノートを見られたこと」がどれほど「(主人公にとって)やばい」が伝わってこない。母がショップに押し入る行動も過剰で、母への共感を奪ってしまっている。「ノートの落書き」ではなく、たとえば「男の子とキスをしている写真」ぐらいであれば乗り込む気持ちも、まあ理解できる。設定も変わってしまうし「男の子ととの落書き」というのが視聴者層への配慮であったとしても「母が乗り込んでしまうような性格」であることへのセットアップが弱いことが根本的な原因としてある。母親は「祖母との葛藤」に関する重要なサブプロットであるが、全く描写が足りていない。これも、たとえばだが「男性関係に厳しい」というセットアップがあり、そこに祖母との過去に関係があれば、母をセットアップしつつメインストーリーも処理できる。こういう処理が雑なため、結果として「やりすぎな母による説明的なシーン」になってしまっている。よく記事で「ムダなシーンが増えると、描くべきシーンが入らなくなる」と言っているのは、こういうところである。この作品全体にわたってサブキャラクターへのケアが足りていないが、主人公のキャラクターアークすら雑なところを見ても、ライターの実力不足だと言わざるをえない。「描写」の話に入ってしまったので「構成」に戻る。

現状での問題点を説明したが、そもそもの根本的な問題点は「カタリストはレッサーパンダ変身であるべきではないか?」ということ。具体的には以下(ビートシートはこちらのとり方)

「カタリスト」:レッサーパンダになる(17分19%)

「ディベート」:ニット帽を被って登校~アクション(20分22%)

「デス」:部屋に逃げ帰る(27分30%)

「PP1」:儀式まで大人しく待つ(=母の庇護開始)(30分34%)

この作品の「フック」要素であるレッサーパンダー変身が始まることは「物語が動き出した」と感じる一番の要素である。これを非日常としてとらえて「PP1」においてしまうのはビートの機能を理解していない人がよくやってしまう。変身ものとして「スーパーヒーロープロット」なども参考にするといい。ストーリーの都合上、どうしても変身が遅れるなら、観客の期待を煽るようにフリを入れておくべきだし、変身が開始したときには、すでに観客は状況が飲み込めていてアクト2のストーリーが勢いよく動きだようにしておくべきである(そもそもアクト1全体の機能が「状況設定」なのだから)。「レッサーパンダになる」というきっかけのあと、悩み/葛藤=「ディベート」が入る。学校から逃げるアクションシーンはディベート的演出でもある。葛藤した末、やはりダメだと部屋に逃げ帰る=「デス」である。その後にレッサーパンダの由来が説明されるが、こんな情報は冒頭シーンや、寺の説明で済ませておいてもよい。説明しておけば、それ自体が変身へのフリになるし、主人公には「あれって、伝説じゃなかったんだ?」と言わせるだけで変身への説明は完了する(設定など観客が納得していればOK)。前倒しで処理していないから「デス」というアクト2への勢いをつけるべきタイミングで、挿話をするハメになっている。時間としても遅すぎる。カタリスト17分という時間を見るだけで失敗しているのは明らか。PP1の34%より、カタリストの遅れのが影響は大きい。挿話がおわり「儀式の日まで、部屋に閉じ込められる」というのがアクト2の始まり。これ自体は「母に従う」というテーマから見れば悪くない。だが、母との関係性のセットアップが弱いため、観客は「ああ、メイが母に従っちゃった~」という印象が抱きづらい。つまり感情移入できないのである。

アクト2

非日常に入ったものの、「学校には行かせない」といったセリフもなく、一晩寝ているだけに見える描写にやや問題を感じる。メイのリアクションも、母に「閉じ込められること」に対してより、レッサーパンダに対する苦しみが描かれてしまっていて、せっかくのテーマがブレている。「レッサーパンダになる」ということは自意識や自立心の目覚めととるのであれば、アクト2のアークは「母に受け入れさせていくこと」が方向性としてある。同時に「心身をコントロールすること」がNEEDとしてある。だが、ストーリーの方向性はブレまくっている。ラストでレッサーパンダのままであることを選ぶので「異形を受け入れる」というマイノリティの問題を込めることもできたが、ほとんど掘り下げられていないのも、もったいない。ただし、このことを考え出すと「異形」=かわいいとされるレッサーパンダでよいか?という問題になる。企画レベルでの検討が必要だった。設定やストーリー展開上、もふもふな人気者になっていく「カワイイ部分」と、人を襲う獣としての「コワイ部分」の描き方が中途半端に混在しているが、レッサーパンダを「異形」として描くのか、「芽生えた自意識」として描くのか、両方として上手く処理するのか。企画として固めて描写するべきだった。せっかくのフルCGアニメの「フック」として、現実社会にいるレッサーパンダなどで良かったのか? 『カンフーパンダ』と比べたときの新しさは? 後述するが、親族一同、同じレッサーパンダで良かったのか? ブレブレである。

「バトル」:まず、友人たちに見つかるも、すぐに受け入れられてしまい、彼女たちを思うことで「コントロールする術」をおおよそ習得してしまう。友人と歌うことを通して、学ぶ描写は「ビッグバトル」のフリになっているのが良いが印象(意義)は弱い。両親によるテスト(猫など)も完了してしまう。

その後、お願いあるというくだりからアークは「4タウンのライブへ行く」に変わってしまう。キャラクターの動機としては理解はできるが、アクト2のアークとして魅力が感じられない。これが刺さる観客は自分も「アイドルのグループ行きたい」けど、いろんな事情で行けない小中学生ぐらいだろう。プロットアークやサブプロットして進めることは問題ない。「母との関係」と同時進行することは容易にできたはず。だが、メインプロットであるはず(企画のフックでもあるはず)の「レッサーパンダ要素」がただのキャラの設定のようになってしまっている。

「ピンチ1」「ミッドポイント」:母にライブを禁止されたことから「チケット代を稼げるか?」というサブ・クエスチョンが始まり、さらにブレていく。学校の子たちがレッサーパンダをカワイイと言ったことを「ピンチ1」として、モンタージュシークエンスでお金を集め「レッサーパンダが受け入れられる」というMP的な演出が入る。そこをMPとするなら「フォール」は100ドル足りないことから「誕生日パーティーの客寄せパンダになること」となるが、アークとしての意味がなく、まだ「ライブへ行くプロット」の途中といえる。誕生日パーティーへ進んでいき「屋根の上で目標金額達成を喜ぶ4人組」で「ミッドポイント」到達の方がしっくりくる。アクト1からのズレが、ここにもしわ寄せがきている。

「フォール」」:は「ライブへ行くプロット」としては「コンサートと儀式が同じ日であると発覚すること」になる。演出もおおげさだが感情移入はしづらい。「ああ、せっかく溜めたのに!」という気分になれない。原因が友人のうっかりという起こし方も雑すぎる。「レッサーパンダが人気者になるプロット」としては「野獣としての側面」が描かれるとなるが弱い。祖母たちの「取り返しが付かないことになる」といったセリフでふっておきながら、どの程度「取り返しがつかないのか」が掴めないので緊迫感がない。設定の説明不足ともいえる。友達など怪我させてしまう展開もあり得たかもしれない。「母に秘密で」という流れでは「母がやってきて見つかってしまう」ことも起きるが、これも「母に嘘をついて隠している」ような描写がしっかりシーンのフリとして弱いので(モンタージュの中にそれっぽいところはあるが)「ああ、バレちゃった」というフォールの感触もない。もしかしたら、これはアクト1の「母娘の関係性」のセットアップ失敗からきている問題かもしれない。

友達を責める母に対して、メイは庇わず母に従う。友人を裏切ったような演出が入り、いかにもオールイズロスト(PP2)的だが、ここは(「ピンチ2」)としておく(ディフィートと呼んでもよいような)。「PP1」と「PP2」、「ピンチ1」と「ピンチ2」を入れ子構造のようにとらえて「ピンチ1」から始まっていた「ライブに行くプロット」がここで終了した「ピンチ2」。母に従うのは「儀式を選ぶ」=「ライブには行けない」という意味合いでももあるが、「友達をかばわない」とのつながりが見えづらい。ライターの描写力不足。何が起きているシーンなのか、ライター自身が掴み切れていないまま書いているのだろう。

「プロットポイント2」:PP1が「儀式まで大人しく待つ」で開始していたので「儀式の時間がきた」がPP2となる。儀式の開始=非日常の終わりという感覚はつかみづらいかもしれないが、アクト2を「儀式までの期間」と言い換えると掴みやすい。だが、この呼び方で掴みやすいことはアクト2のアークが明確でない証拠とも言えそうである。儀式の時間が来た=「時間切れ」と言ってもいいが、では「時間切れ」が何がいけないか? どうなってしまうのか? 時間内に何をしたかったのか?と考えると、やはり「ライブに行きたかった」だけで、儀式とは無関係なのである。儀式の過程が「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」のように行われていく(メイの表情が暗い)が「レッサーパンダから解放されること」がマイナスではないので、フラッシュバックを入れて友達との関係が消えてしまうかのような誤魔かし演出が必要になっている。封印に失敗したあと、「もう一度。やればいい」というのを断り、ライブへ向かうアクト3へ入っていく。ちなみに「もう一度、やればいい」というセリフは「チャンスは一度、失敗は許されない」と言うセリフと矛盾している。一回しかできない設定であれば、もっと「儀式を選ぶこと」への重大さも煽れたし、レッサーパンダを受け入れる生き方の意義も強められた。「赤い月」が何年、何カ月に一回来るのかも説明されていないが、ラストでは親族一同、封印を解いたあと、2度目の封印をしているので「チャンスは一度」というセリフがおかしかったと言うことになるが、設定の根底が揺らいでいる大きなミスだと思う。

「サブプロット」:は「祖母の登場」だが、アークがブレているのでタイミングも効果的とはいえない場所にある(説明的な段取りになってる)。MPまでを「メイと母との関係」で描き切れていれば、祖母は「フォール」で登場しても良かったところ。あるいは「母と祖母のサブプロット」として立てることで、ストーリーに厚みをもたせられたが、祖母はただのサポートキャラクターとしての役割しかない。ストーリー上の役割としては、急に登場する祈祷師とさして変わらない。このお爺さんもアクト1とかでフリを入れるだけで随分と印象が変わったところ。父も親しみやすいキャラクターであるがフリも深みが足りない。メイのビデオを見つけて優しい言葉をかけているが、そんな説明的な段取りはいらず、父親というキャラクターらしい、父親自身の意志、父親自身の言葉で語ればもっと魅力的に描けた。その他、友人たちの描き方も同じ。思春期の娘の気持ちを描きながら、大人たちの価値観や魅力もしっかり立てるべきだった。

アクト3

「ビッグバトル」:メイはレッサーパンダの姿のままでライブ会場へ向かう。テレビで放映されていたりしたが、世間での受け入れられ加減が雑なのはともかく、ストーリーとしては「母に逆らう行動」の開始である。友人との仲直りや、4タウンのライブ演出が入る。封印を解かれた母が迫ってきているので緊張感は維持されているか。母が登場してからビッグバトル開始。CGアニメなのでアクションのテンポはいいが、レッサーパンダなのでアクションとしては地味。「親殺し」ぐらいの意識でみれば積極的にテーマを読み取ることもできるが、作品全体から投げかけてくるものは弱い。母は理性を失ってるわけでもないのでファンタジー設定としての「レッサーパンダの怖ろしさ」もないし、人間の姿でキッチンでやっても同じようなところ。セリフも母親としての愛情や苦労がにじみでるような魅力的なセリフ(大人が共感できるような)はない。この母親らしい個性的なセリフなどもなくがあるわけでもない。一方的にメイが気持ちをぶつけて、母が倒れる。助けるために一族がみんな封印を解いてしまうところもアツイ展開であるはずなのに、みんな同じ色のレッサーパンダだし、親族たちの性格などのセットアップもないので、観客の気持ちとしては、それほど盛り上がらない。「ああ、よくある展開ね」という印象。竹林の世界へ入り、毒親の母の苦しみの吐露と、娘の方が受け入れるという描写はテーマとしても意味深だが、やはりフリが足りないので段取り展開に見えてしまう。祖母との和解らしきシーンも同様。今生の別れのような演出も、キレイだが意味不明。結局、母との関係が変化したのはわかるが、「レッサーパンダのままでいる」ということが何を意味するのかが伝わってこない。

感想

久しぶりに丁寧なビート解説をしてみました。他にも「描写」レベルだと、細かいところがたくさんありますが、やはり物足りない映画は構成を見ただけで原因が出ていることがわかります。構成が悪いということはアークがブレていることで、アークがブレていると、シーンやセリフも説明的になったり、段取りくさくなったり、ムダなシーンが入ったりします。この作品を初めて知ったとき「レッサーパンダ? うーん」と思ったのですが、やはり企画そのものとしても疑問が残ります。たとえばグッズにしたとき、動物園のレッサーパンダとほとんど変わりがないし、設定もテーマもブレてしまっています。ピクサーほどの描写力があると、そこそこに楽しめてしまうところがコワイところでもあり、もったいないところだとも感じます。

ビート解説は記事にするとものすごく時間がかかるので、最近はあまり書きませんが「物語分析会」では口頭で解説しております。興味のある方の参加をお待ちしております。
→ 「物語分析会」はこちら

イルカ 2023.3.26

SNSシェア

フォローする