小説『バートルビー』:不条理な存在との対話(三幕構成分析48)

『バートルビー―偶然性について [附]ハーマン・メルヴィル『バートルビー』』ジョルジョ アガンベン

「する」ことも「しない」こともできる潜勢力とは何か。西洋哲学史におけるその概念的系譜に分け入り、メルヴィルの小説「バートルビー」(1853年)に忽然と現れた奇妙な主人公を、潜勢力によるあらゆる可能性の「全的回復者」として読み解く。小説の新訳を附す。(Amazon商品解説より)

『バートルビー』とは?

僕のように、この作品を初めて知る方のために説明すると『バートルビー』という小説があります。これは『白鯨』で有名なメルヴィルの書いた小説です。

ウォール街の法律事務所で雇った寡黙な男バートルビーは、決まった仕事以外の用を言いつけると「そうしない方がいいと思います」と言い、一切を拒絶する。彼の拒絶はさらに酷くなっていき…。不可解な人物の存在を通して社会の闇を抉る、メルヴィルの代表的中篇2作。(Amazon商品解説より)

とても面白く、読み終わるとふしぎな気持ちになる小説でした。タイトルにもなっている「バートルビー」という人物がふしぎなのです。

何かを象徴しているようで、はっきりと断定はできない。

それゆえ、多くの評論や哲学的な解釈が行われてきたのだと思います。

冒頭に掲げた『バートルビー偶然について』も、ジョルジョ・アガンベンという哲学者の論文だそうです。

正直に言って、アガンベンの論文については、半分以下しか理解できませんでした。そのあたりは次の研究会で掘り下げたいと思っています。

僕としては、メルヴィルの小説『バートルビー』自体を、ビート分析するところから、僕なりの視点で、このバートルビーと向き合ってみたいと思います。

その後に、少しだけ、では「バートルビーとは何なのか?」という解釈を加えてみたいと思います。

ビート分析

ビート分析と、テーマなどを解釈することの、一番の大きな違いは客観性だと思います。

テーマを解釈するときには「○○は△△を現している」といった類比が入り、その方向性に、多分に解釈者の好み6や主観が入ります。

しかし、ビート分析のように構成を見る場合は、テクストそのものにある内容を抜き出して構造を見るので、客観性が高い解釈となります。

だから、作者自身が意図していなくても、構成によってテーマはストーリーのタイプがある程度、決定づけられてしまうのです。(あくまである程度です。構成以外の部分は後述します)。

さて、『バートルビー』の分析をみていきます。

以下、『バートルビー偶然について』の中にある新訳で分析していきます。

アクト1:
「主人公のセットアップ」:この小説は「私」こと「野心のない法律家」の一人称で進みます。「かなり年をとった男」で「仕事柄この三十年間」とあるので50代以上でしょうか。他にもいくつか「私」について書き抜いてみると「最も安易な生きかたこそ最も良い生きかたであるという深い確信に充たされてきた男」「まず平静を失うことはないし、不正や違反に対して危険な憤怒に駆られることはさらに稀」「事務所はウォール街××番地の階段をあがったところ」筆写係を二名、ターキーとニッパーズ、使い走りとしてジンジャー・ナットを雇っている。彼らの説明は、本文に詳細に書かれているので省きします。まずは主人公としての「私」の特徴を掴んでおくことです。この「私」がどう変わるのか? あるいは変わらないのか? バートルビーではなく、この「私」のキャラクターアークとして分析していきます。

各登場人物の、自己紹介に入る前、小説の冒頭で「私」はバートルビーについて前置きします。「彼は、私が会ったなかで、いや、耳にしたなかでも、最も奇妙な筆生だった。」これにより、ミステリーのストーリーエンジンが働いており、読者はバートルービーに興味を持ちます。

そのバートルビーが登場するのは400字原稿で21頁18%の位置です。ここを「カタリスト」とすることも可能な気がしますが「バートルビーを雇用すること」には、全体のストーリー上、あまり意味はないので、この物語では「カタリストはない」としても良いと思います。同様に「ディベート」「デス」もいりません。

重要なのは「バートルビーとの関係が始まる」=「プロットポイント1」からです。
「私」が言いつけた仕事に対して「しないほうがいいのですが」という反応を示したバートルビー。「そのときの私の驚き、いや狼狽を想像していただきたい」とあります。非日常が始まりました。

アクト2:
さて、バートルビーとの関係はどこへ向かっていくのでしょうか?

「私」はバートルビーに対して、あれこれと指示を出したり、受け入れようとしたり、試行錯誤します。この過程は「バトル」といえます。安直に言ってしまえば、奇妙で理解しがたい人間バートルビーを「理解するための闘い」でしょうか。

その頂点「ミッドポイント」といえるのが、「ある日曜日の朝」です。「私は生まれてはじめて、圧倒的な憂鬱感にとらわれ、ちくちくとさいなまれた」とあります。「生まれてはじめて」というのは非日常の最奥部、ミッドポイントっぽい感覚だと思います。さらにバートルビーの机の引き出しを開け、貯金箱代わりにしている結ばれたバンダナを見つけます。「私は、これまで注目してきたこの男の静かな神秘の数々を、今やすべて想い出した。」とあります。「私」なりに、バートルビーを理解した瞬間です。このときの「私」の理解が、正しいかどうかは、ラストまで見ることでわかります。もう少し構成を見ていきましょう。

翌日、「私」はバートルビーに対して「私はきみの友人のつもりなのに」と語ります。MPを経て「友人のつもり」になったのです。しかし、バートルビーは拒みます。

この後、非常に解釈が難しいと思うシーンがあります。

それは「私」を含め、ターキーとニッパーズまでもが、バートルビーと似た「~ほうがいい」という表現を使うようになったというシーンです。このシーンの解釈は、全体の構成を掴んでから考えますが、このタイミングにあることは注意しておきます。

「フォール」はバートルビーが書くことをやめることから始まります。これまでのバートルビーは、部下として、使いづらいところはあれど有用なところはある人物でした。しかし、書くこと=仕事そのものを辞めてしまったとき、バートルビーは部下としての価値も喪失してしまっているのです。この人物をどう理解し、どう受け入れるか? 「私」は次の段階を突きつけられています。しかし、キャラクターアークは下降していき、「私」はバートルビーをクビにする方向へと向かっていきます。

バートルビーを残して引っ越す「プロットポイント2」で、「バートルビーとの関係」という非日常の時間は終わります。

アクト3:
バートルビーは残り、前の事務所の人間が困ります。やってきた弁護士が「あなたは、あそこに残していった男に責任がある」というところから、再びバートルビーと向き合う時間が始まります。ビートでいえば「ビッグバトル」です。バートルビーに対して、いくつかの新しい仕事を進めたりします。ここではバートルビーもセリフで言い返すところが、ビッグバトルらしい印象を受けます。しかし、分かり合えることはできません。「私」はついに自宅にまで誘いますが、バートルビーは拒みます。そしてバートルビーを見捨てます。ビッグバトルを「勝利」か「敗北」という捉え方をするのであれば「敗北」です。結局、「私」はバートルビーを理解することが出来ないまま、彼の死に立ち会います。エピローグとして、郵便局で働いていたという噂話が語られますが、理解できず心残りであった「私」はそんな噂からでも、バートルビーを理解しようとしているとも解釈できます。

バッドエンド型のバディプロット

はじめは価値観が違い、理解できなかった者同士が、非日常の時間(アクト2)を過ごすうちに、お互いを理解し合うというのはバディプロットの型です。(参考:『ペーパー・ムーン』:ロードームービー型のバティプロット

しかし、『バートルビー』はバディプロットの型ながら、理解しあえなかったバッドエンドといえます。

では、なぜ理解しあえなかったは、物語の力学でいえばリワードに関わります。つまり、ミッドポイントで、「私」が理解したと思ったバートルビーは、まったく違ったバートルビー像だと言えるのです。

また、フォールのビート「書くことを辞めたバートルビー」に対して、さらなる理解をしようとはせず「クビにする方向」に向かってしまったことは、リワードを得ずに引き返してきてしまったようなものです。

ここには「私」が、手に入れるべきであった「リワード」へのヒントがあります。

アクト1の冒頭でみた「私」は、その後も極めて善人です。周りの部下が怒っているようなところでも、冷静だし、バートルビーを無下に追い出したり、警察に突き出すようなことは避けようとしています。

しかし、そんな「私」でも越えられなかったものがあったのです。

それが何かを考える前に、バートルビーについて検証してみます。

バートルビーについて考えることは、構成以外の部分、つまり「人物」「描写」といった「構成」以外の部分から、検証するという作業です。

バートルビーとは何者なのか?

この問いについて正しい結論をいうとしたら「わからない」としか言えないでしょう。

語り手である「私」もわからないと言っています。本文中にも書かれていません。

推測や解釈しかできないのです。どう解釈するかは自由です。けれど、どれも絶対的に正しい結論ではありません。

その上で、構成も参考にしながら、解釈をしてみます。

多くの人が感じ、作者も込めているだろう解釈はバートルビーは「神」や「神の子」といったものだと思います。

バートルビーの一番の特徴である「しないほうがいいのですが」という口癖。

英語の原文では I would prefer not to. となるそうです。

これが、哲学的な意味を持っているというのがジョルジョ・アガンベンの視点だと思います。

このあたりの理解は怪しいで、代わりに引用しておきます。

 中世の神学者たちは、神のうちに二つの潜勢力を区別していた。一方は絶対的潜勢力(ポテンティア・アブソルタ)potentia absolutaであり、これによれば、神はどのようなことでも為すことができる(神はこれによって悪を為すこともでき、世界が存在しなかったことにもでき、娘に失われた処女性を回復してやることもできる、とする神学者もいる)。他方は、秩序づけられた潜勢力(ポテンティア・オルディナタ)potentia ordinataであり、これによると、神は自分の意志に合致することしか為すことができない。意志は、潜勢力の無差別な混沌に秩序を設けることを可能にする原則である。したがって、神が嘘をついたり、偽証したり、〈息子〉にではなく女や動物に化体したりすることもできたということが真であるとしても、彼はそうすること欲しなかったし、欲することができなかった。意志のない潜勢力は、まったく実効性のないものであり、けっして現勢力へと移行することができない。
 バートルビーはまさに、潜勢力に対して意志のもつこの優位をあらためて問いに付している。神は(少なくとも、秩序づけられた潜勢力によっては)自らの欲することしか本当に為すことができないが、バートルビーは、ただ意志なしでいることができる。彼は、絶対的潜勢力によってのみ可能である。しかし、だからといって、彼の潜勢力が実効性をもたないというのでもないし、意志がないからといって現実のものにならずにとどまっているというのでもない。その反対に、彼の潜勢力はいたるところで意志を超え出ている(自分の意志をも、他の者たちの意志をも超え出ている)。(中略)バートルビーについては、何かを絶対的に欲するということのないままに為すことができること(そしてまた、為さないことができること)に成功した、と言うことができるかもしれない。彼の「しないほうがいいのですが」という言葉のもつ還元不可能な性格はここに由来する。それは、筆写することを欲していない、ということでも、事務所を離れないことを欲している、ということでもない――単に彼は、それをしないほうがいいのである。これほど頑固に反復される定式は、できることと欲すること、絶対的潜勢力と秩序づけられた潜勢力のあいだの関係を構築する可能性すべてを破壊してしまう。この定式は、潜勢力の定式である。(『バートルビー偶然について』p.40-42)

「神のうちの潜勢力」という哲学的(あるいは宗教的?)な視点からの、バートルビーの解釈は、僕にはわかりません。

以下では、キャラクターとしてのバートルビーの特徴をテクストから列挙してみます。

バートルビーがご降臨あそばす……(p.96)

本来なら原書の英文であたらなくてはいけないところですが、日本語で「降臨」は天孫降臨、あそばすは尊敬語ですから、原書でも神に使うような表現が用いられているということでしょう。バートルビーにこの表現が使われている時点で、作者が、そういった意味を込めていることが窺えます。

動きのない若い男。蒼白なまでにきちんとした、哀れなまでに立派な、癒しがたいまでに見捨てられた姿。(p.104)

「私」が初めて見たバートルビーを描写した一文です。

「しないほうがいいのですが」と彼は言った。そして、仕切りの向こうに穏やかに姿を消した。
 わずかのあいだ私は、着席している事務員たちの列柱の先頭に立つ塩の柱になった。(p.109)

本書に注がありますが「塩の柱」は「創世記」に基づく表現です。

「しないほうがいいのです」と、彼は横笛のような口調で応えた。(p.110)

「笛」は何かを意味をするでしょうか?

彼はジンジャー・ナットを食べて生きているわけだ。(中略)さて、ジンジャーとは何か? 辛い、香ばしいものである。バートルビーは辛く、香ばしいだろうか? 全然。とすれば、ジンジャーはバートルビーに何の影響も及ぼしていなかったわけだ。(p.113)

「したくないのか?」
「しないほうがいいのです」(p.116)

「私」が日曜日に事務所へ行くと、

シャツ姿で、奇妙にもぼろ服を着流していた。彼が静かに言うには、申しわけないが、今はかなり取りこんでいて――今のところは私を入らせないほうがいい、というのだった。彼は一、二言さらに言い足して、おそらく私はそのへんを二、三回歩きまわるほうがよく、そのあいだには自分も用事を終えているだろうというのだった。(p.120)

事務所で、いったい何をしていたのでしょうか?
そして、ミッドポイント、「私」がバートルビーを理解します。

私は生まれてはじめて、圧倒的な憂鬱感にとらわれ、ちくちくとさいなまれた。(中略)彼も私もともに人間だという結びつきが、否応なく私を暗澹とした気持ちに引きずりこんだ。兄弟だということの憂鬱! 私もバートルビーもアダムの息子なのだ。(p.122)

これまで注目してきたこの男の静かな神秘の数々を、今やすべて憶い出した。(中略)彼にはいわば――何と呼ぼうか?――蒼白な傲岸さというか、厳粛な自制といったものが無意識のうちに雰囲気として備わっていて、それで私は畏怖を覚えて、彼の常軌を逸したところに唯々諾々と従うようになっていたということだ。(p.123-124)

彼がうちの事務所を永住の地と……(p.124)

日曜日で、教会へ行こうとしていたのに、

私はトリニティ教会に行くという用件を果たさなかった。自分の目にしたものが、私から教会に行く資格をしばらくのあいだ、どういうわけか奪ってしまったのだ。(p.125)

翌日。

「私と話をするのに、どんな通りの通った異論があるというんだ? 私はきみの友人のつもりなのに。」
 私が話しているあいだ、彼は私のほうを見なかった。彼のまなざしは、座っている私のちょうど背後、私の頭の六インチほど上方にあるキケロの胸像にじっと注がれていた。
「きみの返答はどうだ、バートルビー?」と私は、かなりの時間、応答を待ったすえに言った。そのあいだ、彼の表情は不動だったが、ただ、白く細い口が、わかるかわからないほどに震えていた。
「今のところ、何の返答もしないほうがいいのですが」(p.127)

どうしてバートルビーの口は震えていたのでしょうか?
ちなみにキケロの胸像は、作中に2回でてきます。
1回目はもっと前で、初めてバートルビーが「しないほうがいいのですが」と言った直後です。

彼に普通の人間らしいところが少しでもあったなら、私は事務所から彼を乱暴に解雇してしまったにちがいない。だが、このような状況だったので、事務所に置いてあるキケロの蒼白な石膏像のほうを戸外に放り出すことをすぐに考えたほうがいいというありさまだった。(p.108)

「ほうがいい」という口癖が皆に移り始めたあと、

私は、バートルビーが何もせず、ただ窓の外の行き止まりの壁を見つめて夢想にふけっているのに気づいた。なぜ書かないのかと訪ねると、彼は、もう書かないことに決めたのだと言った。
「なぜだ、どうしてだ? それでこの先どうするんだ?」と私は叫んだ。「もう書かないだって?」
「もう書きません。」
「何が理由だ?」
「理由はご自分でおわかりではないですか?」と彼は無関心に応えた。(p.130-131)

ここでは、バートルビーが初めて「決めた」と言っています。(これがアガンベンが言うところに潜勢力が現勢力という状態に移ったということなのでしょうか)
また、「壁」を見つめている描写はいくつもありました。

「私」が出て行くように言った翌朝、

ふと膝が扉板に当たって、扉を叩いたような音を立てた。すると、それに応えて、内側から「まだだめです。手が離せません」という声が聞こえてきた。
 バートルビーだった。(p.136)

「きみは私のところから出て行くのか、出ていかないのか?」と、今や私は突然の激情に駆られて訊ね、彼のほうに近づいた。
「あなたのところから出て行かないほうがいいのですが。」と彼は応え、「ない」のところを穏やかに強調した。(p.138)

だが、古き人アダム以来のこの憤激が私のなかに湧きあがり、バートルビーに関して私を試そうとしたとき、私はこの憤激をつかまえて投げ飛ばした。どのようにして? いや、単に、「私はおまえたちに、互いに愛しあえという新たな法を与えよう」という神の命令を憶い出しただけである。そう、それこそが私を救済してくれたものだった。(p.140)

あの筆生にかかわるこの厄介事は永遠の昔からあらかじめ運命づけられていたことであって、バートルビーは、全知の神の摂理によって、私のような単なる死すべき一個の人間には計り知ることのできない何らかの神秘的な用件のために私のところに遣わされてきた、という確信である。よし、バートルビー、その仕切りの向こうにそのままいればいい、と私は考えた。(p.141-142)

「私」は葛藤しながらも、バートルビーから離れようとしていきます。

私は、バートルビーに向かって、永久に出て行ってしまうことこそ適切であると単に示唆してみた。私は冷静かつ真剣な口調で、この考えを、注意して大人らしく考慮してもらいたいと負った。しかし、三日もかけて熟考してから、彼は私に向かって、自分のもともとの決定は変わらないままだと告げた。つまりは、まだ私とともに留まるほうがいい、というのだ。(p.144)

引っ越したのち、再び事務所へ戻り、バートルビーとの会話。

「いいえ。何も変えないほうがいいのですが。」(p.149)

「まったく向いていません。何か確かなところがあるようにも思えません。一つのところにとどまっているほうがいいのです。ですが、私はきまった望みがあるわけではありません。」(p.150)

自宅に来るように誘われたときも、

「お断りします。今のところ、何も変えないほうがいいのですが。」(p.151)

「霊廟」こと拘置所へ入れられたバートルビーに面会に行った折、

静まりかえった中庭に一人きりで立ち、顔は高い壁のほうを向いていた。(中略)
「バートルビー」
「あなたを知っています」と彼は振り向かずに言った。「あなたには何も言いたくありません。」
「きみをここに連れてきたのは私ではないよ、バートルビー」と私は言ったが、彼の言葉には疑いの念がそれとなく感じられて、私は鋭い苦痛を感じた。「ここも、きみにとってそれほどひどい場所でもないはずだ。ここにたところで、非難めいたことがきみにくっついてまわりはしない。見てごらん、思うほど悲しい場所でもないよ。ほら、空もあり、草もある。」
「どこに自分がいるのかはわかっています」と彼は応えたが、それ以上は何も言おうとしなかったので、私は彼のところから離れた。(p.154)

「今日は食事をしないほうがいいのです」とバートルビーは言って、向こうを向いた。「食事は私には合いません。私は食事をするのに慣れていません。」そう言うと彼は囲いの反対側にゆっくり動いていき、行き止まりの壁を前にする姿勢を取った。(p.156)

そして、最期の描写。

壁の下のところに奇妙なふうに体を屈して膝をかかえ、横向きに寝そべり、頭は冷たい石に触れている。ぐったりしきったバートルビーが見えた。だが、何も動きがなかった。私は一息ついた。それから彼に近づいた。覗きこむと、彼のどんよりした目が開いていた。それを除けば、彼は深い眠りにふけっているように見えた。何かに促されるような気がして、私は彼に触れてみた。私は彼の手に触れた感じがしたが、そのとき、戦慄がぞくぞくと腕を駈けあがり、背骨から足へと駆け下りていった。(中略)
「王たち、参議たちとともに」と私は口ごもった。(p.158)

こうして、バートルビーに関連するシーンを抜き出してみたとき、それらから浮かぶのは「神の子」でしょうか? あるいは違う何かでしょうか?

極めて内向的な孤独な人間という解釈もできるでしょう。

精神疾患や自閉症スペクトラムの傾向をとることもできるでしょうし、あるいは「他者に心を開かない現代人」の比喩だといった捉えた方も可能でしょう。

自分の過去や身分を隠さなくてはいけない社会的な立場(たとえば移民であるとか)といった解釈もできなくはないでしょう。

バートルビーというキャラクターについて、情報量の少なさから、多重な読みができるようになっていることは確かです。

一方で、作者は、聖書じみた表現や比喩を、英語圏に自然に入り込んでいる以上に、意図的に込めていると僕は感じます。

作者は「神」ないし神的なものとして描いてはいると感じるのです(構成と違って、象徴などの解釈は、主観的になりがちです。あくまで「僕は感じる」です。ちなみに、Bartlebyという名前にも何らかの意味があると思うのですが、わかりませんでした。解釈をご存知の方は教えてください)。

改めて、構成と描写を合わせて「テーマ」に迫ってみたいと思います。

『バートルビー』のテーマは?

いったん、ここまでをまとめます。

構成の側面から見ると、この物語は、

善良な「私」が、バートルビーという人間を理解しようとするがしきれず、離れてしまった。

といえます。

「私」が善良な人間であることは「理解すること」に対して、決して力不足ではないことを表す大切な要素です。

「バートルビーとは何者なのか?」では、神として描いている側面が強いと確認しました。

すると、以下のように言い換えられます。

善良な「私」が「神」を理解しようとするがしきれず、離れてしまった。

バートルビーの理解不能さを、神に喩えるなら、人間ごときが神を理解することなど不可能であるといえます。

アブラハムに息子を殺させようとしたり、信仰心の強いヨブを不幸のどん底に陥れる神は、人知を超えています。

これが、「私」が手に入れるべきであったリワードでもあります。

安直な言い換えをするなら「神への信仰心」でしょうか。(※言葉で名付けたとたん、失われてしまうものがあることを忘れないでください)

「私」のバートルビーに対する態度は極めて善良で、一般常識にも法律に則しても、落ち度はありません。

しかし、それだけではバートルビーを理解して、救うことはできなかったのです。

「私」はバートルビーを受け入れるべきだということを薄々勘付きながらも、最終的には「信仰」よりも「社会生活」(引っ越しをして逃げた)を選んだといえます。

「神の信仰」というテーマはキリスト者でない人間には、切実な問題ではないかもしれません。しかし、本質的には人類の真理に通じています。

『バートルビー』は、無宗教の人間にも興味深く感じられるのは、そのためです。

たとえば、バートルビーを不条理の象徴とすることもできます。

善良な「私」が「不条理」を受け入れようとするがしきれず、目を背けた。

ともいえます。

あるいは、他者との相互理解という人類のテーマにも置き換えられます(このテーマを解決できないから人類は争い続けるのです)。

善良な「私」が「どうしても理解できない」を理解しようとするがしきれず、見捨てた。

こちらの方が理解しやすい人は多いかもしれません。

真理は本来「言葉にはできないもの」「名付けられえぬもの」です。

その「言葉にはできないもの」を聖書的な言葉でいえば「神」とか「智慧」だし、仏教的な用語をつかえば「悟り」になるかもしれませんし、「真理」という呼び方や「不条理」といった呼び方にすれば、宗教色を避けられますが、本質的には同じでしょう。数々の文学作品の中では、さまざまな言葉を使って表現されています。(参考:剥離された言葉

その「言葉にならないもの」「名付けられえぬもの」を、『バートルビー』はたしかに表現していると、僕は感じます。

緋片イルカ 2022/02/23

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