【報告】読書会#3『背高泡立草』古川真人 (三幕構成の音声解説)

2020/2/29に行われた「イルカとウマの読書会」の様子です。
当日配布した資料→「200219_dokusyokai

mp3(108分20秒)

youtube版

前半:物語分析講座

物語分析講座 第1回「物語は『旅』である」について

ジョーゼフ・キャンベルのモノミスについて

クリストファー・ボグラーについて

シナリオ構造論

トッツィー (字幕版)

ハリウッド・リライティング・バイブル (夢を語る技術シリーズ)に『トッツィー』の解説があります)

ホワイトボードに書いた家系図

山田詠美さんの芥川賞選評
正直、毎回この一族の物語を読むたびに、また付き合うのか、と感じていたが、今回、また出会えた! と思えたのは収穫だった。

後半:課題作品のビート分析

※ネタバレ含みます。分析は広告の後から始まります。










【ビートが機能していない回想型構成】

構成の型からいえば「回想型構成」といえます。『市民ケーン』や『きみに読む物語』のように、現代のストーリーと過去の回想がサンドイッチのように交互に展開されます。

ただしこの『背高泡立草』の極めて特徴的な点は「ストーリーエンジン」がないに等しいほど弱いということです。
『市民ケーン』では「ばらのつぼみ」という謎の遺言を探るために取材をするなかで、過去のシーンが展開されます。『きみに読む物語』でははじめは老男女の関係が明かされず、回想を経て恋人同士であることがわかってきます。この「ばらのつぼみ」や関係のような謎が観客の気持ちをひっぱるエンジンとなっているのです。

それに比べて『背高泡立草』では、主人公の奈美が草を刈らねばならないのか」「いつからあの家に住んどったと?」という疑問を呈するものの、その問いに対する答えを主人公は見つけません。どころか、過去のシーンと主人公がほとんどリンクしていません。またハリウッド映画では、回想部分はそれがしっかりとキャラクターアークを持っているのですが、『背高泡立草』では、単発のショートストーリーが4つ展開されるだけで、それらの関連性もあいまいです。

この構成を好意的にみるかどうかが、この作品の評価を分けるように思います。
このストーリーエンジンの回想型構成が、どう機能していて、あるいは機能していないのか、三幕構成のビート分析に基づいてみていきます。

なお三幕構成に関する基礎的な理解がある人向けに解説しています。専門用語も知っている前提で書いています。三幕構成について初心者の方はどうぞこちらからご覧ください。

【ビートシート】

Image1「オープニングイメージ」:機能していない。小説では書き出しは特別な意味をもつ。引用してみると「一体どうして二十年以上も前に打ち棄てられてからというもの、誰も使う者もないまま荒れるに任せていた納屋の周りに生える草を刈らねばならないのか、大村奈美には皆目分からなかった。」映像的ではない。テーマから入っている。写実的描写よりも観念的描写を好む作者だと伺える。この文体は全編を通して描写より観念が優先される読みづらさにもつながっている。後半で「もっとも時の流れを示す眺めこそ、誰も来る者がなくなり、草の中に埋もれた納屋だった。」とテーマを明示している文章があるが、ここまで明確に書いてしまうのならばいっそトップシーンでそのイメージを読者に植えつけておくことでビートとして機能するが、シーンとしては車の中~港でビートは機能していない。

CC「主人公のセットアップ」:主人公と家族が登場しての会話。主人公の奈美、美穂(母)、加代子(伯母)、知香(従姉妹)、哲雄(伯父)、敬子(祖母)。主人公含めた4人の女性が描き分けられていない。奈美と美穂というネーミングもわかりづくて間違えやすい。作者の三人称視点がブレるため、加代子のことを伯母と呼んだり(母からの視点で)姉と呼んだりしていて、わかりづらいと同時に、キャラクターとしても性格やノリが似ている家族を描きわけられていないようにも思う。オープニング同様、人間を観念的に描いて描写が不足していることが影響している。こんな一文がある。「母と伯母はどちらも、せっかちと思えばだらしなく、またそうかと思えば、ここぞのときにはやるにしても諦めるにしても決着が良く、概してあまり悩むことがなく、とはいえ全く悩まないわけでもなかったが、それを自分一人の占有にして大切に扱うことを好まず、忘れっぽく、良く怒りもすれば笑いもし、何につけても言葉に出してみなければ気が済まず、大体のことに対してはずけずけと仮借なく物を言い、ことに臆病な態度、病的であること、お役所式の杓子定規、狡猾さ、度の過ぎた鈍さ、執拗さ、冷たい心根といったものに対してあからさまに嘲りの念を込めて笑うのに一切の遠慮を持たないが、善いことを褒めるにも少しも躊躇わなかった。」こんな文章で、キャラクターを掴めというのだろうか。この文中の、どの性質がこの物語上で重要なのか、たとえば「冷たい心根」に対しての嫌悪をあらわすなら、それをシーンで見せなければ読者には伝わらない。優しい人間であることを読者に伝えるには「彼女は優しい」と書くことではなく、読んだ人が「ああ、この人は優しいんだな」と感じるシーンを描くことである。「寝不足でドラマを観ていた」といった情報よりは、読者にとっては有益だと思われる。男である哲雄、老人である敬子だけはわかりやすいが、性別や年齢以上の特徴は弱い。また「タケ」「昭」(加代子の夫)「知郎」「カワゴエシュウジ」など、名前がいくつも挙げられるため、いちいち理解するのに読み止まるし今後の展開に一切、関係ない者がいる。(※補足:作者はデビュー作の『縫わんばならん』『四時過ぎの船』『ラッコの家』においてすべて同じ家族の物語を描いている。『縫わんばならん』には家系図までついていて、そこからシリーズ連作として読めば理解できる部分があるが、映画の続編などでもよくあるように、前作の設定を前提して主人公のセットアップを怠ると観客はついてこない)。

Catalyst「カタリスト」:奈美「いつからあの家に住んどったと?」というセリフ。物語としては「実家に行って、帰ってくる」という「旅」の構造があるが、それは冒頭からすでに始まっている。小説内の「旅」は「納屋に行って草刈りをして、帰ってくる」という構造で、さらに「草を刈りに行く」旅とともに始まる4本の過去(歴史)に関する挿話がメインストーリーのような構造をしている。そのきっかけになっているのは奈美が「過去」に興味を持つというところから。ただし、奈美は外的要因によってこの疑問をもったわけではなく「不意に」思う。ここでも作者ないし奈美の観念的な性質が現れている。それゆえか、奈美は主人公として、この疑問に答えを出そうという必死さに欠ける。「なぜ刈らなくてはいけないのか」「いつからあの家があるのか」という疑問に対して、必然性や積極的に探していく姿勢がないのだ。それは、この後の主人公としての弱さ(ストーリーエンジンの弱さ)に影響してくる。

Debate「ディベート」:「哲雄に聞く」「敬子婆に聞く」。奈美の疑問に対して、質問と回答がくり返される。ただし必然性や積極性の欠如により、ディベートというよりはただの日常会話にもみてとれる。ビートとしてぎりぎり機能しているといえるが弱すぎる。

Death「デス」:見当たらない。ディベートを受けて、第二章「雄飛熱」で、十三郎という先祖が家を譲り受けたことが説明されるが、それは哲雄の話の詳細な繰り返しでしかなく、奈美達にも影響しない。その由来も、ただ譲り受けただけで、読者を過去への興味へと惹きつけるイベント(それこそがデスの機能!)もない。それでも、唐突に挿しこまれた過去の話で「これから何か起きるのだろう?」という予感だけは持たせるが。

PP1「プロットポイント1(PP1)」:「母、伯父、伯母が草刈りに出発する」。主人公の奈美は、祖母の仕事を手伝うといって残る。「旅」の拒否でもある。母、伯父、伯母という親世代と、奈美、知香という子世代の差を描いたとも好意的にとることはできる(それが狙いなら母の美穂をもう一人のセットアップする必要しておく必要がある)。祖母の元に残ったことで、そこから過去への繋がり(非日常)へ入っていくのかという予感はここでもあるが、二人は風呂洗いをしてから、遅れて行くだけである。つまりキャラクターアークとしてとるなら、奈美はまだアクト2に入っていない(ディベート段階にある)。

Battle「バトル」:アクト2が「過去への興味」として展開されていくのであれば、第四章「芋粥」はバトルとして機能していくが、この話に入るきっかけは現代にはない。昔こんなことがあったらしいという敬子の話の詳細説明にしかなっていない。すると「芋粥」はサブプロットとして「ピンチ1」として捉えておく方が掴みやすいかも知れない。

MP「ミッドポイント」:「草刈りが終わる」。親世代がほとんど片づけていて、奈美が到着した頃には草刈りはほぼ終わっている。主人公はバトルという試練を経ていないので、疑問に対する答え(報酬)を手にすることもない。全体の構成としてみたときは折返し地点にはなっている(プロットアークとしてのミッドポイント)。文字通り、行って帰る構造の「帰り」として、家に帰り始める。

Fall start「フォール」:「母が新しい家に寄るという」。次の目的が提示されている。草刈りを拒んだ奈美のキャラクターアークでみれば、ここがPP1ととれる。

Pinch2「ディフィート or ピンチ2」:第七章「無口な帰郷者」。この話では「語らない者」というテーマが見てとれる。この話はややサブプロットとして機能しているように見える。前半で、母と伯母はおしゃべりな存在として描かれているので対比ともとれなくない。死人に口なしのように過去の歴史の人は語らない、植物も語らないなど。ただし、それ自体、第一作の『縫わんばならん』のテーマで、作者自身のテーマでもあるのだろうが、この小説ではオマケでしかない。テーマは構成上でディベートされていなければ、テーマとはいえない。

PP2(AisL)「オールイズロスト or プロットポイント2」:「寝転んだ奈美が、ふと答えを見つける」。草刈りをしなかった主人公の奈美は、新しい家の「除湿剤を取り換える」という仕事をしたことによって気付きを得たと言えなくもない。「新しか家」に入るときには植物に水をやらなかったが、帰るときにはあげる。「納屋がかわいそう」という母の感性に触れて笑うのは、奈美なりの母が刈るのを受け入れたシーン。奈美は少し変化している……と、言えなくもないが好意的すぎる解釈。「ふと静寂に自分が投げ込まれたように感じた」とあるように、ここでも「ふと」気付いてる。ふと抱いた疑問に対しては、ふと答えを出すことが正しいのかもしれない。奈美のキャラクターアークとしてとるならミッドポイント。物語構造としては、二人が敬子(祖母)の家に帰ってきたところでPP2とすることもできるが、それでとると、この物語はアクト3がなく長いエピローグ(福岡の家に帰る)だけの構造となる。ここで物語を終えることもできた(※補足:この作者の過去作品では「気づく」ことで終わる物語が多い。また寝転がった姿勢で気づくことが多いのはライターズコア)。映画的な構成と考えて、いったん、ここをPP2とすることにする。

BB(TP2)「ターニングポイント2」:「第八章カゴシマヘノコ」の話は構成上の位置としてはアクト3、ビッグバトルに相当するが、カヌーというアイテムによる関連から始まるという以外には、サブプロットとしての意義も不明。ビートとして機能していない。PP2を上にとったものの、テーマのクライマックスとしてのアクト3にはなっていない。ここだけ一人称も入り、饒舌なのが異質。(参考:過去作品の作者自身の投映と思われる「稔」の口調に似ている)

image2「ファイナルイメージ」:母に草の名前を聞く。各4つの賞での挿入話では、主人公に名前がついていないが、それらに名前をつけるかのように聞いていく。効果はあるがオープニングからのセットアップが弱くキーワードを絞り切れていない印象。「草を刈る」と「名前を知る」という動作のイメージがちぐはぐでもある。

【まとめ】

回想型構成のようで「ただ草を刈って帰ってくる」だけの旅に、あまり関連性のないように思える挿話が挟まっている。関連性がないと思うか、持たせようとしてるが意味が生まれていないととるか、関連性を勝手に想像するか、そういった読み方のちがいが、この作品の印象の差になるように思います。個人的には「草が茂る」「歴史が埋もれる」「草を刈る」「雑草のように名前も知られていない草」「歴史にも残らない人々」「語らない人」「おしゃべりな人」といった強いモチーフはあるのに、整理して物語に落とし込めていないゆえにアンバランスな構成になっているように感じます。

以下、芥川賞選評から選考委員の言葉を引用します。

さまざまなドラマをはさみ込み厚みが出た。それらはもう過去に置き去りにされた物語だが、読み手の心には現代の情景の補色のように残像を残す。もっと、現代と過去を結ぶキイワードのような言葉(たとえば、ヨシジュウ、ジュウザブロのような)を出しても良かったかもしれない。(山田詠美)

小説の中の時間と空間を広げてゆこうという作者の試みが感じられたのは確かなのですが、それがうまくいっていたかどうかは、微妙なところでした。(川上弘美)

わたしはいささか親切過ぎる読み方をして、古い家の雑草刈りに集まった主人公たちが生まれ育った平戸の島そのものの「血」を象徴するメタファだと解釈した。そのように読むと、俄然、この小説に生命力が付加されて、受賞作として推したくなった。(宮本輝)

少し大げさに昭和臭を漂わせる作風には相変わらず違和感をおぼえるのですが、市井の一家のファミリーヒストリーと見せかけて、その土地自体を物語る手腕は高く評価したいと思いました。生茂る草を刈るごとにスケールの大きな土地の物語が見えてくるように、もう少し文章も刈り込んだ方がいいような気もしました(吉田修一)

文章が読みづらいというのは多くの人が感じる印象だと思います。読点が多く、視点がブレていることが主な原因です。
一方で、デビュー作の『縫わんばならん』以降、意識の流れに沿って、記憶と現実をごちゃまぜに記述していくスタイルとして描いていたものから比べれば、かなり読みやすくなっています。
そのあたりに対して以下のような意見があります。

「読みにくさ」は魅力の源泉でもあったので、そこをむしろ徹底することで、壁を突破してほしかった。(奥泉光)

過去と現在の二項対立ではない「傍らにいる」記憶をたどる言葉の密度が、これまでの作より薄いという印象を受けた。カヌーの挿話と捕鯨の話もどこか中途半端である。代が若くなればなるほど、記憶の「そばにいる」のは困難になる。その近さが回復される日はかならず来ると期待して(堀江敏幸)

なんだかインディーズのミュージシャンが、メジャーデビューしたら音楽が変わったというのに似ている気がします。
過去作品を読んでみると、確かに読みづらいなかに独特な魅力を感じます。芥川賞受賞により『背高泡立草』から読む読者が多いのは、作者にとってもったいないことかもしれないと感じます。

古川氏なりの企図や構想があり、方法の追及があるのかもしれないが、彼は結局はただわけもわからぬまま書いているように見える。そこから生まれる読みにくさは、肯定的にも否定的にも評価できるが、いずれにせよ中上健次の文章のような「花」があればと惜しむ気持ちは残る。(松浦寿輝)

作者はインタビューでは以下のように答えています。

「俺、社会的思想とか、宗教的信念とか、そういうのないわ」と気づいたんです。じゃあ何を書こうと思った時、小さい頃に仲良くしていた婆さん達を思い出して。そこで聞いた話を淡々と書いていけば小説になるんじゃないかと思ったんです。

選考委員の方に「やっとパスポート(※芥川賞のこと)もらえたんだから、これから旅に出ないと」と言われたともあります。受賞会見でも(今後の作品は)「島から出てみたい」と答えています。

とはいえ関東を舞台に、文体も標準語中心にした『窓』(『ラッコの家』に収録)という作品をすでに書いています。登場人物はやはり同じ家族の浩と稔の兄弟。島や長崎の家族はほとんど登場せず、小説の新人賞を受賞した弟と視覚障害の兄が中心。神奈川の障害者殺傷事件や優生思想などについて触れていますが、この作品は芥川賞にノミネートされなかった2018年の作品です。

島というよりも、この家族以外を描くかどうかが、作者にとっての「旅」になるのかもしれません。

緋片イルカ 2020/02/23

三幕構成の分析に基づく読書会を定期的に開催しています。興味のある方のご参加お待ちしております。

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構成について初心者の方はこちら→初心者向けQ&A①「そもそも三幕構成って何?」

三幕構成の本についてはこちら→三幕構成の本を紹介(基本編)

キャラクター論についてはこちら→キャラクター分析1「アンパンマン」

文章表現についてはこちら→文章添削1「短文化」

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