宮沢賢治『やまなし』考察:クラムボンの正体よりも大事なテーマ

『やまなし』を読んだことがない方は、こちらに朗読もありますので、よかったら先に聞いてみてください。

【クラムボンは『泡』】
宮沢賢治の『やまなし』の中に「クラムボン」という言葉がでてきて、その正体が謎だということから様々な説があるそうです。
賢治は感性に従って思いきった表現をするため、ときどき、わかりづらい文章があります。
けれど、複雑な謎かけをする作者ではありません。一般的にクラムボンは「泡」と言われます。素直に受け取るのが正しい読み方だと思います。

 二疋ひきの蟹かにの子供らが青じろい水の底で話していました。
『クラムボンはわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『クラムボンは跳はねてわらったよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
 上の方や横の方は、青くくらく鋼はがねのように見えます。そのなめらかな天井てんじょうを、つぶつぶ暗い泡あわが流れて行きます。
『クラムボンはわらっていたよ。』
『クラムボンはかぷかぷわらったよ。』
『それならなぜクラムボンはわらったの。』
『知らない。』
 つぶつぶ泡が流れて行きます。蟹の子供らもぽっぽっぽっとつづけて五六粒つぶ泡を吐はきました。それはゆれながら水銀のように光って斜ななめに上の方へのぼって行きました。

蟹の兄弟が水に流れる泡(と光り)を見上げて、ぽっと割れた泡を「わらった」と表現したり、勢いがついてぼこっと破裂した泡を「跳ねてわらったよ」と、たとえて遊んでいるシーンと受けとってよいと思います。

 つうと銀のいろの腹をひるがえして、一疋の魚が頭の上を過ぎて行きました。
『クラムボンは死んだよ。』
『クラムボンは殺されたよ。』
『クラムボンは死んでしまったよ………。』
『殺されたよ。』
『それならなぜ殺された。』兄さんの蟹は、その右側の四本の脚あしの中の二本を、弟の平べったい頭にのせながら云いいました。
『わからない。』

ここで魚がやってきて「泡」が搔き消されたことを「死んだ」と表現しています。

 魚がまたツウと戻もどって下流のほうへ行きました。
『クラムボンはわらったよ。』
『わらった。』
 にわかにパッと明るくなり、日光の黄金きんは夢ゆめのように水の中に降って来ました。
 波から来る光の網あみが、底の白い磐いわの上で美しくゆらゆらのびたりちぢんだりしました。泡や小さなごみからはまっすぐな影かげの棒が、斜めに水の中に並ならんで立ちました。

「泡」と読みとっておかしな点はないと思います。
後半でも同じようにして遊んでいるシーンがあります。

 蟹の子供らはもうよほど大きくなり、底の景色も夏から秋の間にすっかり変りました。
 白い柔やわらかな円石まるいしもころがって来、小さな錐きりの形の水晶すいしょうの粒や、金雲母きんうんものかけらもながれて来てとまりました。
 そのつめたい水の底まで、ラムネの瓶びんの月光がいっぱいに透すきとおり天井では波が青じろい火を、燃したり消したりしているよう、あたりはしんとして、ただいかにも遠くからというように、その波の音がひびいて来るだけです。
 蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので睡ねむらないで外に出て、しばらくだまって泡をはいて天上の方を見ていました。
『やっぱり僕ぼくの泡は大きいね。』
『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だってわざとならもっと大きく吐けるよ。』
『吐いてごらん。おや、たったそれきりだろう。いいかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだろう。』
『大きかないや、おんなじだい。』
『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いいかい、そら。』
『やっぱり僕の方大きいよ。』
『本当かい。じゃ、も一つはくよ。』
『だめだい、そんなにのびあがっては。』

蟹の兄弟は大きくなっているので、ややセリフが大人びて、小さい頃は「クラムボン」と呼んでいたものを「泡」と呼ぶようになっています。
賢治が川べりを散策するうちに蟹をみつけて、ぶくぶくと泡を吹いているのを見て、こんな会話を想像したのかもしれません。

【重要なのは『泡』の意味】
蟹の兄弟が「泡」を見て「笑った」「死んだ」と言っているシーンは、ただ遊んでいるだけなのでしょうか?
全体のあらすじを言えば、

遊んでいた兄弟の元へ、魚がきて、カワセミが来て怖がる。
少し大きくなって、今度はやまなしが落ちてきて追いかける。

こんなところですが、賢治がこの作品で伝えたかったテーマは何なのでしょうか?
そこから改めて「クラムボン」=「泡」の意味を感がえてみます。

仏教の経典に「夢幻泡影」(「むげんほうよう」と読みます)という言葉があります。
「夢」「幻」「泡」「影」は儚いものの例えです。「夢幻のごとく」という言葉が浮かぶ方も多いと思います。

もう一つ例をあげれば有名な『方丈記』の冒頭、
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
世の中にある、人とすみかと、またかくのごとし。

この「よどみに浮かぶうたかた」とは水面に浮かぶ泡のことです。

もちろん宮沢賢治が仏教に深かったことは有名ですし、童話のいくつかは仏教法話として書かれています。
学校の国語教育では、賢治の宗教的側面に深入りしないように童話を読ませるそうですが、それでは作品の本質に触れることができません。

「泡」をはかない命、として兄弟のやりとりをもう一度、読んでみてください。
とても意味のあるシーンに見えてきませんか?

そして、意味のあるものであるからこそ、泡と呼ばずに「クラムボン」とあえて呼ばせたのでしょう。
故郷の岩手県を理想郷として「イーハトーブ」と呼んだのと同じです。

【魚やカワセミが表すものは?】
命(泡)が生まれて、笑って、消えて、また生まれて。それを眺めている蟹の兄弟。
そこへ再び魚が表れます。

 魚がこんどはそこら中の黄金きんの光をまるっきりくちゃくちゃにしておまけに自分は鉄いろに変に底びかりして、又また上流かみの方へのぼりました。
『お魚はなぜああ行ったり来たりするの。』
 弟の蟹がまぶしそうに眼めを動かしながらたずねました。
『何か悪いことをしてるんだよとってるんだよ。』
『とってるの。』
『うん。』
 そのお魚がまた上流かみから戻って来ました。今度はゆっくり落ちついて、ひれも尾おも動かさずただ水にだけ流されながらお口を環わのように円くしてやって来ました。その影は黒くしずかに底の光の網の上をすべりました。

「とっている」のは命です。『よだかの星』にこんな一節があります。

(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで餓うえて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。)

忘れている人もいると思いますが、よだかはいじめられて星になるのではありません。命をとらないと生きていけないこの世界を倦んでいるのです。(ちなみの『よだかの星』の朗読もこちらにあります)
賢治も菜食主義者だったことは有名です。
その流れで、魚とカワセミのシーンを見てみましょう。

『お魚は……。』
 その時です。俄にわかに天井に白い泡がたって、青びかりのまるでぎらぎらする鉄砲弾てっぽうだまのようなものが、いきなり飛込とびこんで来ました。
 兄さんの蟹ははっきりとその青いもののさきがコンパスのように黒く尖とがっているのも見ました。と思ううちに、魚の白い腹がぎらっと光って一ぺんひるがえり、上の方へのぼったようでしたが、それっきりもう青いものも魚のかたちも見えず光の黄金きんの網はゆらゆらゆれ、泡はつぶつぶ流れました。
 二疋はまるで声も出ず居すくまってしまいました。
 お父さんの蟹が出て来ました。
『どうしたい。ぶるぶるふるえているじゃないか。』
『お父さん、いまおかしなものが来たよ。』
『どんなもんだ。』
『青くてね、光るんだよ。はじがこんなに黒く尖ってるの。それが来たらお魚が上へのぼって行ったよ。』
『そいつの眼が赤かったかい。』
『わからない。』
『ふうん。しかし、そいつは鳥だよ。かわせみと云うんだ。大丈夫だいじょうぶだ、安心しろ。おれたちはかまわないんだから。』
『お父さん、お魚はどこへ行ったの。』
『魚かい。魚はこわい所へ行った』
『こわいよ、お父さん。』
『いいいい、大丈夫だ。心配するな。そら、樺かばの花が流れて来た。ごらん、きれいだろう。』
 泡と一緒いっしょに、白い樺の花びらが天井をたくさんすべって来ました。
『こわいよ、お父さん。』弟の蟹も云いました。
 光の網はゆらゆら、のびたりちぢんだり、花びらの影はしずかに砂をすべりました。

カニは雑食だそうですが、「おれたちはかまわない」というのは菜食主義者の蟹なのかもしれません。
白樺の花が「泡」と一緒に流れてくるのも意味深です。
樺という花自体にも意味があるのかもしれませんが、泡といっしょに流れてくるのは儚い命達を守る仏様の御手のようにも感じられます。

【やまなしは天上からの贈り物】

 そのとき、トブン。
 黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうっとしずんで又上へのぼって行きました。キラキラッと黄金きんのぶちがひかりました。
『かわせみだ』子供らの蟹は頸くびをすくめて云いました。
 お父さんの蟹は、遠めがねのような両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見てから云いました。
『そうじゃない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行って見よう、ああいい匂においだな』
 なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂いでいっぱいでした。
 三疋はぼかぼか流れて行くやまなしのあとを追いました。
 その横あるきと、底の黒い三つの影法師かげぼうしが、合せて六つ踊おどるようにして、やまなしの円い影を追いました。
 間もなく水はサラサラ鳴り、天井の波はいよいよ青い焔ほのおをあげ、やまなしは横になって木の枝えだにひっかかってとまり、その上には月光の虹にじがもかもか集まりました。
『どうだ、やっぱりやまなしだよ、よく熟している、いい匂いだろう。』
『おいしそうだね、お父さん』
『待て待て、もう二日ばかり待つとね、こいつは下へ沈しずんで来る、それからひとりでにおいしいお酒ができるから、さあ、もう帰って寝ねよう、おいで』
 親子の蟹は三疋自分等らの穴に帰って行きます。
 波はいよいよ青じろい焔をゆらゆらとあげました、それは又金剛石こんごうせきの粉をはいているようでした。

そして、天からふってくる「やまなし」は「おいしいお酒」になります。
もちろんタイトルにもなっている『やまなし』こそが、この作品のテーマです。
「クラムボン」の謎解きばかりしていると、作品の大事なメッセージを見落としてしまうのではないでしょうか?

冒頭にも紹介したいとうじゅんさんの朗読は、この辺りのテーマ性をくみとって朗読してくださいました。
よかったら聞いてみてください。→宮沢賢治『やまなし』

こちらのサイトでは、より細かいところまでことばの意味を考えていて、とても面白かったです。『やまなし』という作品をもっと考えてみたい人にはオススメです。

小説や映画に興味ある方は、こちらも覗いてみてください。

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