物語の最小単位は「不均衡」→「均衡」であるということは、以前の記事で述べましたが、これは人間が物事を理解するときの「原因」→「結果」という構造と同じです。
なにか凶悪事件が起きると、世間では「原因」つまり犯人を知りたいと思います。これは恐怖や不安から、ごく自然な反応です。
「繁華街で無差別殺人が起きる」
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「容疑者が捕まる」(裁判で罪が確定するまでは犯罪者ではなく容疑者です)
そこで一安心します。次は「どうしてこんな事件が起きた?」と容疑者の身辺が知りたくなります。
「容疑者の性格、育ち、環境」
どこに原因があったのか、それぞれが勝手に原因を決めつけ、自分の物語を作ります。
「頭がおかしいから(こんな事件を犯した)」「育ちが悪いから」「親が悪いから」「いじめが原因」「学校が悪いから」「貧困が悪いから」「警察が悪いから」「政治が悪いから」……そこから、さらに「罰則を厳しくするべきだ」とか「取り締まりを強化しろ」といった対策案まで議論は発展するかもしれません。
しかし、そういった原因の中に「わたしが悪い」が入ってくることはありません。当然でしょう。その事件と遠くて安全なところにいる「わたし」には関係ない話なのです。いわば、テレビの中のドラマやショーを見て感想を言っているだけです。「わたし」と切り離された物語はとても無責任で暴力的です。
本当に「わたし」と関係ないのでしょうか?
本当の本当に、全く、一切関係ないと言い切れるのでしょうか?
「気付かせる」まで言うのは烏滸がましいけど、「わたし」と社会をつなぐ物語を紡ぐことは作家の仕事なのかもしれません。
太古のムラでは語り部やシャーマンが物語を紡いでいました。
神話が機能していた頃には、信じるべき神、頼るべき神が存在しました。
すがるべき物語がない現代は、人々は粗悪な物語を自分で作るしかないのかもしれません。
面白おかしい物語を書いているだけなら、事件を煽る無責任なヤジと同じです。
「わたし」がどう思うか、そこに責任を持つのが、物語を発信する者の責任のように感じます。
緋片イルカ2019/08/25
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