文章テクニック15「サブテクストを描写から考える」

前回、セリフにおけるサブテクストについて考えました。
今回は同様に、描写におけるサブテクストについて考えていきます。

【説明と描写は違う】
下手な描写は説明になります。とくに闇雲に書かれた文章は読者を疲弊させます。

 夜になると透かしが閉じられて見透しは遮られる。小庭は建物正面の幅と同じくらい奥行きがあり、道路の壁と隣家との共同壁に囲まれ、共同壁にはキズタが外套のように生い茂っていたので、隣家は完全に隠されていた。その様はパリの絵画的情景として通行人の目を引いていた。それぞれの壁は果樹棚や葡萄棚に遮られていて、そこで実るひょろ長くて埃っぽい果実はヴォーケ夫人とその下宿人達との会話で毎年関心を集める主題なのである。長い城壁は狭い散歩道に沿って菩提樹の木陰にまで続いている。コンフラン家出のヴォーケ夫人は菩提樹ティユル(tilleul)のことを住人から文法的に注意されたにもかかわらず、あくまでもティユーユ(tieuille)と発音していた。二本の側道の間に朝鮮アザミの四角い花壇があって、その横には紡錐形に刈り込んだ果樹があり、更にまた、カンポ、レタス、あるいはパセリが周りに植わっていた。菩提樹の木陰には緑色の丸テーブルが置かれ、周りは椅子が取り囲んでいた。そこでは、酷暑の日には、会食者達は遠慮なくコーヒーを飲めるのをいいことに、卵を孵えしてしまうような暑さの中を、それを賞味しにやってくるのだった。建物正面は四階からなり、二重勾配屋根を載せていた。そして小さな切り石と塗装でもって、パリのほぼ総ての家屋に卑しい性格を与えているあの黄色い色を施していた。各階に付いている五つの窓には小さな窓ガラスがはまっていて鎧戸が付いている。そのどれもがまちまちに上げ下げされていたので横の線が相互に調和しない印象を与えていた。この家の一階の奥の方には窓が二つあって、装飾的な鉄格子が付いている。建物の裏には約二〇フィートの長さの庭があり、そこに豚、雌鳥、兎などが仲良く暮らしていて、その端っこには倉庫があって材木がしまわれていた。倉庫と台所の窓の間には食糧貯蔵箱が置かれていたが、その下には台所の流しから出た脂染みた水がこぼれ落ちているのだった。この裏庭はネーヴ・サント・ジュヌヴィエーヴ通りに向けて狭い戸口があって、料理女はその汚い場所から悪臭を消すために大量の水を使って、家中のごみを外へ追い出していた。

かなり疲れませんか?
花壇にどんな植物があるとか、壁の色などまで、ていねいに書いてありますが、読んでいる方には、これらの描写から何を伝えたいのだろうか?と疑問を抱いてしまいます。明らかに現代人向けの描写ではありません。
これは実はバルザックの「ゴリオ爺さん」からの引用です。
当時の人はこの文章を読んで「貴族の生活」というものを想像して楽しんだそうです。
そういった視点で読み直せば、資料的な価値や研究対象としての面白さがあります。

しかし、写真も動画も使いこなせる現代小説には、ここまでの描写は必要ないでしょう。説明しすぎと感じてしまうのです。
説明と描写は違うのです。

【説明にセブテクストを持たせる】
例文で見ていきみましょう。

「俺はその階段を登った。108段あった。」
説明的です。「主人公が階段を登った」ということが明確なので端的でわかりやすいとも言えます。
108という数字が、意味合いをもっていそうですが、これだけでは描写としては弱く。まだ説明の域をでません。
その数がストーリー上、重要でなければ、ただ「登った」とだけ書けばよく、「108段」という文章は余計です。

【俺は息を切らせて階段を登りきった。108段あった。」
「息を切らせて」と「108段」がつながって、登るのが大変だったという印象がわかります。
肉体的にはつながりますが、心理的描写にはなっていません。

「煩悩を振り払うように一気に駆け上がった。108段あった。」
「煩悩」と「108段」という言葉には関連があるので、2つの文章がなんとなく繋がります。
この、読者が「なんとなく感じる」ものが描写におけるサブテクストです。
登りきった先には何があるのでしょうか? 爽やかな展開が期待できませんか?
次の描写と比較してみてください。

「煩悩を振り払うように一気に駆け上がった。107段だった。」
「107段」というのはただの物理的な描写でしかありませんが「煩悩→108」という連想を持って読んでいる人には「一段足りない」という描写に感じられます。まだ「煩悩は振り払えていない」ようにも見えます。
この先の展開は「108段」あったときとは変わるような気配がします。

作者が描写の意図を説明してしまうこともできますが、文藝作品では「説明しすぎ」の可能性もあります。文藝作品が読む人によって感じ方が変わるのは、読者によって「サブテクスト」を読み取る力に差があるからです。古典などが研究者の助けを借りないと「ちゃんと」読めないのは、時代的なサブテクストが含まれるからです。エンタメなら書いてしまった方が面白がられるでしょう。

【ストーリー全体のサブテクストはテーマである】
上記のように、たった2行の描写にサブテクストが込められるように、物語全体にもサブテクストが込められています。
それがテーマです。

「子供が親を殺すストーリー」があったとします。これは物語のあらすじ、テクストに過ぎません。
それを「ダメなDV父親から逃れる話」として読むこともできるし、「愛情が希薄な現代の子供の暴走」として読むことができるかもしれません。
そこに込められているのが作者のサブテクストであり、テーマでもあります。

作者の描写がサブテクストと合致していなければ、意図とは違った読まれ方をしてしまいます。
だから、サブテクストを描くことが物語の本質でもあるのです。

※ちなみに想像力豊かな読み手は、作者の意図以上にサブテクストを読み込んで補完しますが、意図的に書いていない場合は解釈と描写に不一致が見られます。読書の楽しみとしては自由ですが、作者の意図を深読みして有り難がるのは過大評価です。曖昧な表現が得意なばかりに過大評価されている芸術家もいて、アート=説明できないものという方向付けをしてしまうのは考えものだと、個人的には思います。

緋片イルカ 2019/07/27

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●参考→三幕構成の本を紹介2『サブテキストで書く脚本術 (映画の行間には何が潜んでいるのか) 』リンダ・シーガー (著), 坪野 圭介 (翻訳)

構成について初心者の方はこちら→初心者向けQ&A①「そもそも三幕構成って何?」

三幕構成の書籍についてはこちら→三幕構成の本を紹介(基本編)

文学(テーマ)についてはこちら→文学を考える1【文学とエンタメの違い】

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