※この記事は結末までのネタバレ含みます。
スリーポインツ
PP1:「夫婦だ」とウソをつく(21分20%)
MP:エリーが涙を流す(59分56%)
PP2:車ですれ違う(86分82%)
感想・構成解説
言わずもがなの古典的な名作映画です。
アカデミー賞で主要5部門と言われる作品賞、監督賞、主演男優賞、主演女優賞、脚色賞、すべてで受賞したいうと、すごい映画に聞こえてくるかと思います。
ちなみにその後、5部門受賞をした映画は『カッコーの巣の上で』のみ。
また、『アニー・ホール』は、5部門中 4部門で受賞。主演男優賞のみノミネート止まりだったが、監督・脚本・主演男優の3部門がウディ・アレン自身です。
賞レース嫌いなウディ・アレンは、受賞式には参加せず、ジャズバーでトランペットを吹いていたとか。ポーズだろうと思いつつも、実際に受賞して、そのポーズをとれるのはカッコイイと思う(受賞できない映画人がどれだけいるかを思えば)。
その後も、数々のノミネートをされるも授賞式には姿を現さない彼が、一度だけ登壇したのが、9.11の翌年。元コメディアンらしいユニークなスピーチでも有名。(こちらに全文引用なさってる方がいました→https://ameblo.jp/mylittleblues/entry-12251884708.html)
話が逸れました。『或る夜の出来事』に戻ります。
この映画が、5部門受賞したのは1934年。モノクロ映画です。日本が国際連盟を脱退したのが1933年、二・二六事件が1936年、そんな時代です。
映画関係でいえば、現在のTOHOシネマズシャンテの場所に「日比谷映画劇場」が開場したのが、1934年。入場料は50銭だったそうです。
古典鑑賞の立場で見れば、いろいろと勉強になることはある映画ですが、現代人がエンタメとして楽しめるかというと、やや物足りなさを感じると思います。
ラブコメ映画というのもあるでしょう。
生きるか死ぬかといった普遍的テーマを中心に据えたような作品は、古さを差し引いても感動できるものがあります。同じフランク・キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生!』など、そうです。
しかし、恋愛観というのは、時代や社会の影響をダイレクトに反映するので、古くなると共感しづらいくなることが多々でてきます。
さらに、コメディというジャンルはリアリティが無視されやすいジャンルです。現代ではコメディでも一定以上の水準が求められますが、古い作品では粗が目立ちます(つまりツッコミどころが満載)。
シネフィル的なトリビアなどは、たくさんありそうな映画ですが、ここでは構成という視点から、この作品を扱っていきます。
この映画はラブコメの一つの原型といえ「バディプロット」や「ロードムービー型」に当たります。
ブレイク・スナイダーの10のストーリータイプでは、
「バディプロット」は6:相棒愛Buddy Loveに、
「ロードムービー」は2:金の羊毛 Golden Fleeceの中のバディ羊毛Buddy Fleeceに、
含まれていますが、この分け方は表面的で、構成としての分類にはなっていません。
僕は「ロードムービー型」というのは表面的な要素(題材)で構成とは別なので、プロットとは呼びません。
一方、「バディプロット」は構成として、一定のパターンがあるので「プロットタイプ」と呼びます。
どこか目的地へ向かって旅をする映画は、たくさんあって、その多くは2人旅なので「ロードムービー型」と「バディプロット」が合わさっていることは頻繁です。
しかし、1人旅のロードムービー型(『イントゥ・ザ・ワイルド』)とか、家族旅のロードームービー(『リトル・ミス・サンシャイン』)もあります。
バディプロットでも旅に出ないものはたくさんあります。つまり「ロードムービー型」ではないバディプロットです。
バディプロットのうちストレートな男女の恋愛をあつかったものを、僕は「ラブコメ型」とか呼んでいます。(参考記事:「三幕構成と恋愛(プロットタイプとストーリータイプの違い)」
もちろんバディプロットで男女の恋愛でないものもたくさんあります。
同性愛でも、友情物語でも、バディプロットのものがあります(『蜘蛛女のキス』とか『最強のふたり』とか)
構成に詳しくない方は、とにかく、基本的なロードムービー型のバディプロットとして、この映画を分析してみるのは良いかも知れません。
『ローマの休日』(1953年)との比較も面白いかもしれません。
ただし、古さは否めないので、そのあたりも補足しながら、『或る夜の出来事』の構成を見ていきます。
「オープニングイメージ」はありません。船が映りますが、テーマを暗示しているとかではなく、場所や設定の説明として映るだけです。モンタージュなどの映画的な技術や、そもそもカメラやフィルムの機械的技術が未熟な時代だと思います。全編に渡ってカットやアップも少なく、演劇のように、長ゼリフなどが多くあります。
「主人公のセットアップ」:エリーの父親に結婚を反対されている状態からの逃亡開始。船上である必要はあるのか? 飛び込みをシーンとしてやりたいのかなという印象も受けます。あんなんでボートや探偵から逃げられるか?というリアリティの疑問もよぎりますし、現代なら、父親が銀行関係のこととか、婚約者の顔と嫌なやつであることなども、セットアップしておきたいところです。同格主人公のクラーク・ゲーブル扮するピーター・ウォーンが登場し、上司に電話しているシーンでは、電話を切られてるに拘わらず、周りの記者仲間に見栄を張るという、演技性の性格あるいはコメディ的なユニークさがセットアップされています。これも現代であれば、あとで出てくる「お金が大事じゃない」という価値観やwantまでしっかりセットアップしておきたいところです。
「カタリスト」:長距離バスで、ピーターとエリーが出会います。7分なので現代からしても早いです。現代人でも耐えられるテンポです。構成に関していえば、初心者でよく「出会い」を非日常の始まりと勘違いする人がいますが、出会いはきっかけ=「カタリスト」です。一度、出会っても、二度と会わないかもしれません。こんな展開を想像してみてください。この後のシーンでピーターが女性に電報を頼んでいるシーンがあります。この女性は、映画中に二度と登場しません。しかし、ピーターがバスを降りて、その女性とレストランで再会、「あら、あなたは、さっきの」とでもなったとします。エリーではなく、この女性との全く違う展開が予想できるかと思います。この場合、「カタリスト」は電報を打つシーンになるはずです。レストランの後、「部屋に来ない?」とでもなれば、非日常=アクト2が始まります。PP1とカタリストは関連しているのです。だから、出会っただけではPP1にはならないのです。
「ディベート」:バスで移動中の二人のやりとり。第一印象は悪い二人というのはラブコメの定番です。
「デス」:エリーはバッグを盗まれ、バスには置いていかれ、ピーターに身元がバレて、電話して帰れと言われる。ニューヨークへ行くのに絶体絶命としてのデス。二人のシーンが多いので、エリーとピーターのどちらが主人公なのか判断しづらい部分がありますが、ラブコメは二人で一本のビートを叩いていくこともあるので、二人でとってしまっても問題あありません。必ずしも二人にすべてのビートがあるわけでもありません。ここでのデスは、エリーにとってのデスであり、プロット全体としてのデスと考えます。
「プロットポイント1」:鬱陶しくしゃべるという隣席の男シェプリーに「夫婦だ」とウソをつく。この行動はピーターの方から踏み込んでいます。二人の本格的な関係が始まります。ディベートのときも隣に座っていましたが、その時とは会話の質が変わってきます。二人の関係が本格的に始まるのです。「夫婦だ」というウソは、この後のシーンでもくり返されますが、アクト2で、周りにウソをついたり、名前が変わるという展開は、いろんな映画で見られます。
この時点でのピーターの目的は何でしょうか?
エリーと出会ったことを編集長宛に電報で送っていることや、後のシーンで「無事に送り届けて、記事にすること」を告げているので、最初からそれが目的のようです。懸賞金よりも記事にすることが目的であるという点は、キャラの動き方としては重要です。シェプリーのように金が目的ではないため、一緒に旅をするという動きが成立しています(のちの自分の記事を書くフリでもありますが)。金に困っているといった設定を入れてしまうと、ピーターの動き方が変わってしまいます。
また、バスのチケットを届けて帰るように言ったり、、チョコレートを買おうとすると節約するように諫めたり、内心では心配する気持ちもあるのだと推測もできます。
ピーターの「無事に送り届ける」、エリーの方では「NYに辿り着く」という、外的な目的(イクスターナルな目的)が、一緒に旅をしながら、小さなやりとり(「バトル」)を積み重ねるうちに「送り届けたくない」、「辿り着きたくない」という恋心に変わっていくのが、ラブコメの腕の見せ所です。ある意味、映画が成功しているかどうかに関わります。
恋に変わる過程が、オシャレだったり、艶っぽかったり、「こんな経験したら好きになっちゃうよね~」と観客に思わせられるかどうかは映画の魅力につながります。
しかし、この時代の映画は『ピグマリオン』など、男尊的な価値観ですので、この辺りが、現代人では共感しづらい人がいるかもしれません。
字幕の口調が増長している部分もあるでしょうが、クラーク・ゲーブルは年上の力強い男性を思わせるキャスティングです(『風と共に去りぬ』の印象があるせいかもしれませんが)。
ちなみに『或る夜の~』の主演二人の年齢差は2歳です。
男尊的なシーンの賛否はどうあれ、物語としては大切なのはキャラクターの心理です。
男尊的なキャラクターが登場し、それを受け入れる女性が登場しても、それがキャラクター心理に基づいて描かれていれば、描写なのです。(キャラクター描写と作者の思想を結び付けるのはお門違いです)。
具体的に見ていきましょう。
毛布で「ジェリコの壁」をつくってプライバシーを守る紳士的な態度。記事にしたいのだという目的をウソをつかずに話すところも誠実といえそうです。
パジャマやガウンを貸してやり、朝は早起きして朝食をつくってやる。
世間知らずのお嬢様を、世話する父親的な態度が見てとれます。男尊的ともいえそうです(肩車して尻を叩くシーンなど現代では怒られそうです)。
しかし、映画の表現そのものより、物語で大切なのは、キャラクターです。
エリーは実の父親が過保護に育てたられた御嬢様です(父親も認めている)。
このことへの対比で、この再教育が、エリーの成長にとって必要(need)だったとも言えそうです。
エリーを探している探偵が部屋にきて、演技をしてやりすごすシーンは、大きな「バトル」です。二人で一緒に何かをやるというシーンは距離感を縮めます。
次のバスの車内でみんなで唄うシーンは、現代人が見るとかなり冗漫に感じますが、音楽が流れるようなシーンだけで、この時代では魅力的だったと思われます。日本ではテレビもない時代です。
演出的には楽しげで「ミッドポイント」といえます。
直後にバスが沼にはまって、シェプリーの脅迫があって、二人はバスを降ります。
前半はバスで進みましたが、映像的には単調になるので、乗り物が変ったりするのは「ロードムービー」でよくあります。
イクスターナルだけに見たとき、雰囲気が変わるMPというのがあるので、バスで歌うシーンをMPとして、シェプリーが声かけてくることは「フォール」となるのです。
映画では、イクスターナルな目的や見せ方が重要ですが、バディプロットでの焦点は、あくまで「二人の心の変化」です。
なので、バディプロットとして分析するときは、MPだけはインターナルなものでとるように、僕はしています。
バディプロットのMPでは「心の内を吐露」ようなシーンがきます。本心を打ち明けるということは、相手を信頼していることも意味します。
バスを降りて、飼育小屋(?)へやってきた二人。
足が痛い、お腹が空いた、服がシワになると文句を言うエリーに、ピーターは苛立ちまぎれに怒ります。
ピーターの姿が見えず、とうとう見捨てられたと思って泣き叫ぶエリー。
すぐに帰ってきたピーターに抱きつきます。
そして、文句を言いながら、コートをかけてくれる優しさ。
エリーは(おそらく)生まれて初めてのひとりになるという恐怖や、ピーターの優しさを感じます。吊橋効果もあるでしょうが、エリーの人生ではこんな男性は初めてだったのでしょう(おそらく)。
キスをしなかったピーターに、エリーが「何を考えてるの?」と尋ねます。
「I was thinking of you.」(君の事を考えていた)と言ったあと、
「I was just wondering what makes dames like you so dizzy.」
字幕では「君はなぜ ヘソ曲がりなんだ?」となっていますが、
直訳すると「何が、あなたのような女性をそんなにdizzyにさせるのか、私は考えていた」でしょうか。
dizzyは「(女性が)おろかな、忘れっぽい」といった意味があるので、エリーとしては怒られたと思ったのでしょう。
同時にピーターとしては、「どうしてあんな男(婚約者)を好きになるんだ」という恋心が匂います。
このセリフのあと、ピーターは横になり会話は終わりますが、エリーの目には涙が浮かんでいます(モノクロなのでわかりにくいですが)。
ここが、バディプロットとしてのミッドポイントです。時代的な演出の弱さが、伝わりにくさにつながっていると思いますが、しっかり描かれています。
ミッドポイントを過ぎてからも、旅が続きます。
ヒッチハイクのコメディシーン、泥棒から車を奪ってくるアクションシーンなどは、現代ではやや魅力に欠けるシーンかと思います。色気でヒッチハイクの車を停めるなどは、現代人ではコントレベルです。
怪我を拭いてやる、拒んでいた人参を食べるといった、小さな交流シーンを挟んでから、MPから10分ほどして、ようやくフォールが起こります。「父親とエリーの婚約者が和解すること」で、これによってエリーは旅する目的を失います。このシーンがMPから遅いせいで、観客の緊張感が高まらず、ヒッチハイク、車を奪うくだりが、余計にダラダラと感じます。
宿について、最後の夜。旅の終わり「プロットポイント2」を予感させます。
送り返した後は、もう会うことはないという会話。
恋をしたことあるか?という会話からの、愛する女性を島に連れて行きたいというピーターの夢。
しっとして、いい会話だと思います。
ただ、残念ながら、島への夢が、あまりピーターのキャラクターや映画の筋に関係ないところが、弱さを感じます。
こういうセリフは「ただキレイなこと」を言っておけばいいというものではなく、キャラクターらしさが欲しいところです。
たとえば、御嬢様のエリーが聞いたこともない、庶民的な幸せなどをピーターが願っていれば、エリーにとっては、異世界への憧れにつながります。島にいって、海を眺めるといった体験はエリーなら、すでにしたことがありそうです。
また、こういった魅力的な会話をMPにもってきていれば、ここで、さらに踏み込んだ会話が展開できたはずです。つまり、ちょっと遅いという印象は受けます。
この遅さは、時代的なものではなく、書き手の感情への踏み込みの問題で、現代でも、テーマを遅くて、掘り下げきれていない映画はよく見かけます。
エリーの告白「あなたなしでは生きていけない」なども、やや大袈裟に聞こえますが、これは世間知らずの御嬢様が、冒険をして新しい恋をしただけのようにも見えてしまいますが、それはキャラクターの本質的な、感情の掘り下げが足りないからです。
これも、やはり時代的なものでもあります。
ヒッチコックの『めまい』が1958年、『サイコ』が1960年です。
この映画は1934年です。心理学的な観点が持ち込まれるより前の映画です。
さて、エリーからの告白を受け、ピーターは一度は拒んだもののしばらく考えた末に決断をします。エリーは眠っています。
ピーターは一人で部屋を出て、ガソリンを手に入れ、記事を書き、新聞社へ持っていき借金をして帰る。
一連に勢いがあるシークエンスなので、アクト3に入ったような気配もありますが、PP2はもう少し後です。
宿屋の夫婦が部屋にやってきて、エリーは捨てられたと勘違いします。エリーだけを主人公とするなら、ここがPP2です。細かい要素では「夫婦というウソ」がバレたのも、ここが初めてです。
ただ、二人のバディプロットとして、とるのであれば、なんやかんやあって、踏切で車がすれ違うところです。僕はこちらをPP2としました。
ここで、二人にとっての旅が完全に終わります
86分82%は遅いのですが、エリーの告白シーンが76分72%で、こちらでアクト3が始まったような演出がされているので、あまり遅くは感じません。
「ピーター、部屋から出て行くなら、メモぐらい置いておけよ」とツッコミもできそうな展開ですが、これもタイトル「It Happened One Night」の「It」の一つの意味なのかもしれません。
アクト3は、二人がそれぞれ落ち込んでいる長い「ダーク・ナイト・オブ・ザ・ソウル」を経てから、お金の支払いのためにピーターが屋敷にやってくるところです。
PP2の別れ以来、二人が初めて顔を合わせる「ビッグバトル」です。
皮肉を言い合って別れるツイスト。
それでも最後にはピーターを選んで式を飛び出して、ビッグフィニッシュ。
このあたりのアクト3はいろんな映画で類似があると思います(たとえば花嫁を結婚式に奪う=『卒業』とか)
今みると、演出的にはチープなアクト3ですが、その後の映画に影響を与えているのは待ちがいないかと思います。
エピローグのジェリコの壁が破られる表現は、当時のレイティングによって、性描写が規制されているためではないかなと思います。わかりませんが。
役者の顔すら見せないというのも、現代ではちょっとありえないエンディングですが、ともかくハッピーエンドです。
緋片イルカ 2021/10/17