アニメ『おジャ魔女どれみ』:願望と魔法

昨年、公開された『魔女見習いをさがして』という映画についての話を聞いて、観客の反応も見てみたくて映画館に行ってみようと思ったのですが、近くで上映してなかったのと、コロナ感染も警戒して、配信を待つことにしました。

かわりに『おジャ魔女どれみ』のシリーズ1作目の第一話を目を通してみました。

1998年のアニメなので「描写」が古いところは無視して「構成」を見るだけでも、とても良くできた作品だと思います。

下手なハリウッド映画より、この手の「一話完結」で「お決まり」(魔法で解決とか、変身して対決など)のあるアニメは、たった30分(実際は24分)で、ビートシートを凝縮したような、よくできた構成になっています。

今回は分析記事ではないので、構成について掘り下げませんが、

カタリスト:MAHO堂に入る。
PP1:魔女になる
MP:ほうきで空を飛ぶ
ビッグバトル:先輩のサッカーの試合(恋の対決でもある)

のビートをとるだけで、いかによく出来ているかはわかります。

カタリストの前の「日常」でいかにキャラクターの設定、性格、重要人物の顔見せを効率よく「処理」しているかも注目しておくに値します。

三幕構成を勉強されている方は、ぜひ、一度、構成という目で、この手のアニメを見てみることをオススメします。

さて、今回のお題は「魔法」についてです。

人間は願望のかたまり

いうまでもなく、人間には欲望があります。食欲、性欲、睡眠欲の三大欲求はもちろん社会的なつながりを求める欲求や、自己実現の欲求もあります。

マズローなど心理学の分野でも研究されていますが、主人公のWANTという観点からは、物語にも影響します(参考記事:リンダ・シガーの七段階欲求)。

欲求、欲望、願望……それらを、ここでは細かく区別しませんが「人間が何かを求めて生きていること」は誰も異存がないでしょう。

また、すべてが叶う人間もいません。

どんなに権力や財力があっても老病死は避けられません。すなわち「生きる」ことすら苦しみであるというのは仏教の見方でもあります。

物語の役割のひとつに「価値観の提示」があります。

低い次元でわかりやすいものは、子ども向けの教育的なストーリーです。欲望に従って悪いことをして、罰を受けるストーリーを見ることによって、倫理観を学びます。

大人向けでは、教育が「共感」に変わります。

自分と同じような欲望を持つ主人公に共感し、応援し、安心感やカタルシスを得るのです。

物語は観客・読者の価値観を変容させることもあります。

これは、プロパガンダや妄信的な信者、無知な大衆を生む作用でもあり危険な側面もあります。

最も高次だと思う物語は「コスゴモニックアーク」をもっています。これについては言葉にしきれない側面があるので、ここでは書きません(言葉にはできないものを描いた物語とでも捉えてください)。

物語を通して、主人公は欲望を律することを学んだり、現実的な折り合いをつけることを学びます(これが変化です)。

したいからといって、ルールを破ったり、周りの人間を傷つけたりしたら、結局はダメなんだ、と学ぶのです。

主人公は子どもだけでなく「わかっていてもやってしまう」大人が変化する物語もあります。

魔法と禁忌

「魔法」は欲望の安易な解決法です。妄想ともいえます。それゆえ、太古より物語にくりかえされるモチーフです。

『おジャ魔女どれみ』の主人公どれみ(小学三年生ぐらい?)は、憧れのサッカー部の先輩に告白をしたいと思っています(WANT)。

朝、学校へ行く前に魔法の呪文を唱えます。

小学生の頃などに「消しゴムに好きな人の名前を書くと恋が叶う」などといった程度の他愛のないおまじないですが、まじないは「呪い」と書くぐらいで、太古より呪術として存在していました。

医学が未発達な時代では、治療の意味さえもっていました。

科学が浸透した現代人からしたら信じられないような手法を笑う人もいるかもしれませんが、現代でも、多くの人が真剣に神社を参拝したり、占いをしたりしています。

コロナ感染に恐怖を抱きながらも、多くの人が初詣へ行くのです。

現代人は、科学が万能ではないことも知っています(科学信者とでもいうべき「科学的」を妄信する人が時々いますが、科学は天気すら確率でしか予想できないのです)。

「呪い」を施す者は呪術者やシャーマン、「神託」を授かる者は巫女、「魔法」を操るものは魔女(良い意味で呼ぶ時は魔法使いか)、呼び方を違えど役割は同じです。

科学者ですら「タイムマシン」を作れば同じ役割をします。

いずれも「超自然的な力」をあやつって、願望を叶えるのです。

しかし、魔法には必ず禁忌があります。

「超自然的な力」は誰か一人の願望を叶えるためのものではないのです。人間を超越した力だからです。

『おジャ魔女どれみ』の魔法にも、たくさんのルールが存在します(「魔女と言い当てられてしまうと蛙になる」とか「病気やケガを治すと自らが負う」など)。

こういった物語はブレイク・スナイダーのストーリータイプでは「魔法のランプ」と呼ばれます。

このタイプの主人公は、幼稚でわがままな願望を持っていることが多く、やりすぎて、反省して、学びます。

一方、超自然的な力を提供する魔女側(どれみでいえばマジョリカにあたる)を主人公にした物語のタイプもあります(名称がないので僕は「道具屋さんもの」と呼んでいます)。

「MAHO堂」に毎回ゲストキャラが尋ねてくるようなストーリーを想像してみてください。

魔法のアイテムを使って、ときにハッピーに、ときにやりすぎて不幸になってしまうような物語を、目にしたことがあると思います。

ドラえもんの道具ですら「超自然的な力」を提供する道具という意味では同じタイプです。

バッドエンドになるようなパターンでホラーのように演出すれば『笑ゥせぇるすまん』になるし、のび太くんのドジで失敗して笑えば『ドラえもん』になるのです。

いずれにせよ、「魔法」というストーリー上の要素が、観客を惹きつけていることは言うまでもありません。

「願望を叶えるという共感」と、超自然的な力に対する、絶対に超えてはいけない一線が垣間見えることに対する「敬虔な気持ち」が物語の魅力なのです。

『おジャ魔女どれみ』の第一話で、どれみは魔法を使っても先輩の心を掴むことはできません。

先輩には両思いの女の子がいて、彼女は魔法を使って「先輩の痛みを引き受ける」ほどに先輩のことが好きなのです。それを見たどれみは「自分にはできない」と感じます。

わずかなシーンですが、魔法にもできないことがあることをかいま見せる、優れたシーンだと思います(これは実はコスゴモニックアークの片鱗でもあるのです)。

緋片イルカ 2021/01/03

※補足:魔法を学んでバトルをしていくような物語もあります。これは題材として魔法を使っているだけで物語の構造としてはスーパーヒーロー型になります。つまり修行して「必殺技」が出せるようになるのと、杖から火を出せるようになるのは、構造上は同じなのです。

この記事については、ラジオ「ほっこりトークS」【物語ラジオ】物語における魔法について/しまうまの一人ラジオ (#4)でも話しています。

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