この記事はミニプロットについて(中級編13)からのつづきです。
目次:
①プロットの尺度
②「クローズド・エンディング」と「オープン・エンディング」
③「外的葛藤」と「内的葛藤」
④主人公の数
⑤キャラクターコアとwant
⑥時間の扱い
プロットの形式⑦「因果」と「偶然」
因果関係か? 偶然か?
ロバート・マッキーの『ストーリー』の小見出しをテーマにして掘り下げてきた「プロットの形式」シリーズは、今回で最後になります。
残り2つのテーマは以下。
「因果関係か? 偶然か?」
「一貫性のある現実か? 一貫性のない現実か?」
ともに「視点」に関わる問題なので、今回の記事で扱います。
参考記事:ストーリーサークル3「視点」
抽象的、感覚的な話が多くなると思いますが、具体例をあげて説明していきます。
まずは前者、「因果関係」と「偶然」に関わる部分の引用から。
アークプロットが重きを置くのは、世界で物事がどのように起こるか、原因がどのように結果を生むか、この結果がどのように別の結果を引き起こすか、である。古典的なストーリー設計は、明らかなものから不可解なものまで、私的なものから叙事詩的なものまで、個人のあり方から国際的な情報社会まで、人生の壮大な相関図を示す。鎖のようにからみ合った因果関係を解明し、理解できた暁には人生に意味を与える。一方、アンチプロットは、因果関係ではなく偶然を用いることが多く、物事の脈略のないぶつかり合いを重んじる。それは因果関係の連鎖を立ち、断片化や空虚や不条理へとつながっていく。(p.69)
続けて、主人公の動機づけと関連させた説明がありますが、第5回で説明しているので省きます。興味がある人は書籍も参考にしてください。
引用部分を要約すると「因果関係」で物語が展開されるのがアークプロット、「偶然」で展開されがちなのがアンチプロットといえそうです。
アンチプロットの定義を厳密に言い換えるとしたら、アンチプロットはアークプロットの否定なので「偶然で展開される」というよりは「因果関係で説明できない展開」といえると思います。
人間はストーリーに因果関係を求め、判断します。
これはアプリオリ(先天的な)能力で、多くの人は無意識に行っています。
たとえば「女性が泣いているシーン」があるとします。
観客は「何があったんだろう?」と考えます。その疑問自体が原因を考えはじめている証拠です。
直前のシーンに「葬式のシーン」があれば「ああ、大切な人を亡くしたんだな」と理解します。
直前に「男性に別れを告げられるシーン」を置くと、涙の理由は失恋に変わります。
映像編集のように「女性が泣いているシーン」は全く同じものでも、前に何を置くかで理解が変わります。
ストーリーとは観客の無意識がつながりを見つける中で展開されると言い換えることもできるかもしれません。
では、直前に「パーティーで楽しそうにしているシーン」を置いたらどうでしょう?
あまり「因果関係」のなさそうなシーンを置くのです。
リテラシーの低い観客は「意味不明」「情緒不安か?」などと感じるかもしれませんが、リテラシーの高い観客であれば「楽しいときにこそ、悲しいことを不意に思い出すことってあるよね」など想像を働かせるかもしれません。
因果関係を観客の想像に委ねているのです。
一般的に、アンチプロット寄り(あるいはミニプロット寄り)になるほど、ストーリー上の因果関係のわかりやすさは崩れますので、その分のリテラシーを求められます。
ちなみに、構成が未熟がために因果関係が崩れてしまっていて、それを面白がる観客がいたりもしますが、全体の統一感をみれば、作り手が意図したものか、未熟さから来るものかは明確です。抽象画と子どものお絵かきの差かもしれません。これを見分ける力もリテラシーかもしれません。
アンチプロット、つまり「因果関係の否定する」には、全く関連のないシーンで繋いでみます。
「女性が泣いているシーン」の前に「火星で宇宙人が踊っているシーン」があったらどうでしょう?
意味を見いだすのは不可能に近いでしょう。
それでも「バタフライエフェクトで、宇宙人の行動が、人間の情動に関連しているのかもしれない」などと意味を読み取ろうとするかもしれませんが、常識的な基準で考えれば、何かの間違いと思うのが自然でしょう。
そういう作品が思えると感じる人は、前の記事でも紹介しました『イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ』というドキュメンタリーの中で出てくる、ティエリーという男が編集した映像を見てみてください。録り溜めたフィルムを思いつくままに切り貼りした映像です。
個人的には「アンチプロット」は見ていて苦痛か、眠くなるものばかりです。
人間の無意識の作用である「因果関係を読み取ること」を否定されつづける映像を何時間も見るなんて、『時計じかけのオレンジ』のワンシーンのようです。
以上、2つのシーンを並べただけでも、人間は因果関係を読み取ろうとするということは、お分かり頂けたかと思います。
「因果」に基づくプロット
ストーリーの全体は「断片化されたシーン」の連なりですので、「因果関係」に基づいてストーリーを組み立てることは、わかりやすさにつながります。
「因果関係」をスムーズに理解できると、観客は心地よく物語の世界に没入できます。
この感覚を、単純に、映像的に表現していると思うのが『ピタゴラスイッチ』です。
「ああ、こうなって、そうなって、あれが、そこにくるのか」といった心地よさで、ついつい見てしまいます。
あれだけで1時間や2時間も惹きつけるのは難しいですが、動きが変化をしながら、スムーズにモノが流れていくのを見るのは心地よいものです。
「変化をしながら」と言いましたが、ボールがただ真っ直ぐ飛んでいくだけでは、単調で飽きてしまいます。
ボールがあっちにいったり、こっちにいったりという変化があり、それでいてスムーズに流れることが面白さです。
この変化はストーリーでいうビートに相当することは言うまでありませんが、中級記事なので割愛します。
参考記事:ログラインを考える1「フックのある企画から」(初級記事がまだの人はこちらから)
一連なスムーズな流れを通して、ひとつのテーマを伝えるのがアークプロットです。
「今から、このボールを、離れたところにあるゴールへ入れます」
それが簡単そうに見えるのであれば興味は惹きません。
けれど「え? そんなことできるの? できるんだったら見てみたいけど」と思わせるようなゴールを提示して、さいごには見事に到達するのを見て、拍手するのです。
ボールはもちろん主人公の比喩でもあります。
一般的に「夢オチ」とか「どんでん返し」と言われるような驚かしには、上手い下手があります。
「もう、無理だろう」と失敗したかと思わせて、「どんでん返し」でゴールを決める展開に観客は拍手します。
しかし、逆は批判されがちです。
これは、せっかくのゴール直前のボールを、ひょいと摘まんで台無しにするような行為です。
観客はスムーズな展開に心地良さを覚えていたのに、急に「夢でした」と言われると不快で、怒りすら感じるのです。
「どんでん返し」の上手い下手には「因果関係」が関係あります。
「因果関係」に基づく展開をしてきたのであれば、「因果関係」に基づいた「どんでん返し」を作らなくてはいけないのです。
たとえば、前の記事で使ったプロット「いじめられていた子が、ボクシングで強くなって、ライバルを倒す話」では、アクト2でボクシングの努力を重ねることが展開であり、テーマでもあります。
「努力をすれば、人間は変われる。強くなれる」といったテーマ。「努力」→「強くなれる」という因果です。
それが、クライマックスでピンチに陥ったとき、対戦相手が足を滑らせて怪我をしたことで、主人公が勝利したらどうでしょう?
「因果」ではなく「偶然」が勝利を導いたことになってしまいます。
こういう「どんでん返し」は白けの原因になるのです。
「偶然」に基づくプロット
では、アークプロットでは一切の「偶然」が許されないのかというと、そんなことはありません。
たとえば、ボクシングを始めるきっかけになる少女と「偶然」出会った。これは、さほど問題になりません。
むしろ「運命」だったといった解釈すらできます。
何がよくて、何がいけないとは、一概に言える問題ではありません。
あまりに「偶然」の多い展開は「作者のご都合主義」と言われますし、奇跡や運命のような「偶然」を演出できたときには感動につながります。
バランス感覚には、作者自身の「視点」すなわち「人生観」が反映されることも多々あります。
「人生は自分次第」といった価値観の作者が描けば、アークプロット寄りになるでしょう。
ロバート・マッキーが言う「鎖のようにからみ合った因果関係を解明し、理解できた暁には人生に意味を与える。」とは、まさにこのことです。
あるいは「良いことと悪いことは、プラスマイナスでゼロになる」という価値観を持っている作者が描いたドラマには、「偶然」が何度も起き、自然とミニプロット寄りになるでしょう。
どちらが、良い悪いではないことは言うまでもありません。
興行の観点でいえば「アークプロット」が優位なのは当然ですが、それは、アークプロットの方がわかりやすい(リテラシーを求められない)からです。
とはいえ、ミニプロット的でも魅力的な作品に仕上がっていれば、観客に受け入れられて、その雰囲気は作家性のように言われることになるでしょう。
ポイントは、一つの「視点」が作品全体を貫いていることです。
前半まで「因果」に基づいて展開していたのに最後が「偶然」で解決してしまう「どんでん返し」が白けるように、「偶然」による展開で進めてきたのに、クライマックスだけエンタメ映画のようになって「キレイにまとめてしまう(悪い意味で)作品も白けます。
一つの「視点」が貫かれていれば「偶然」ばかりで描かれていても、テーマは伝わります。
好き嫌いはかなり分かれると思いますが、アンチプロットぎりぎりの作品を、1つ紹介しておきます。
『コード・アンノウン』
https://amzn.to/39k0myF
いくつかのシーンに関連性=因果関係がほとんどありません。アンチプロット的です。
けれど、一つのテーマが全体を貫いています。
無意味なシーンを無作為に並べているアンチプロットではないのです。
その意味で、ぎりぎり「ミニプロット」な作品だと僕は思います。
この作品を理解するには、観客の側で隙間を埋める「想像力」や「共感力」が求められます。
ただ因果関係を「理解」せずとも、各シーンを受け止めるだけでも魅力的な作品です。
頭で理解することだけが、作品を味わうことではありません。
ミニプロット作品の魅力は、わかりやすいアークプロット作品とは全く違うところにあるのです。
「人間には理解できないものがある」けれど「感じることはできる」といった「視点」に立てるかどうかも、ミニプロット作品を感じるリテラシーの一つかもしれません。
一貫性のある現実か? 一貫性のない現実か?
「一貫性のある現実」とは、登場人物とその世界の相互関係を成立させる、フィクション上の設定を言う。それは作品全体を通して一貫して守られ、意味を作りあげる。(p.70)
(中略)
「一貫性のない現実」とは、複数の相互作用が混在した設定を言い、そこではエピソードのひとつの「現実」から別の「現実」へと気まぐれに飛びまわり、不条理の感覚が生まれる。(p.71)
もう1つのテーマ「一貫性」の有無は、これまで説明してきた「因果」「偶然」のバランスに「一貫性を持たせること」が理解できれば、それで十分だと思います。
ストーリーの「因果」と「偶然」のバランスに、「一貫性」があればテーマが作りあげられるし、それは「設定」や「演出」についても同じです。
「魔法」や「SF」といった世界観では、現実ではできないことが可能な設定ですが、その世界における一貫したルールが必要です。
「一日一回しか魔法は使えない」と言っていたのに、「やってみたら使えた」とルール違反をしたら、観客は白けます。
ルール変更は「一貫性」のなかで行わなければいけません。
たとえば「魔法が一日一回しか使えないのは、魔法のエネルギーが不足するから」→「ただし、この薬を飲めば、一時的にエネルギーを使わずに、使うことができる」といった具合です。
こういった「一貫性」は演出にも関わります。
ホラーやアクションなどのジャンルを越えた演出をして失敗している例がたくさんあります。
アンバランスさが、全体として統一がとれていれば、それはそれで一貫しているとも言えます。その監督や作家の個性です。
技術の未熟さが、「一貫性のなさ」に繋がっていることが、多々あるのも同じです。
以上、「アークプロット」と「ミニプロット」ということを考えながら、プロットに関わる形式の違いを連載してきましたが、今回でこのシリーズは終わりになります。
緋片イルカ 2022.5.14
定期的に課題作品の分析などを行いながら話し合うイベント→「物語分析会」
真剣な作家活動に興味ある方→「同時代作家の会」