スリーポインツ
プロットアーク
PP1:ヴィア(姉)のシークエンスが始まる(26分)
MP:ヴィアがキスする(57分)
PP2:犬のデイジーが死(74分)
キャラクターアーク(オギー)
PP1:オギー、学校へ行く(14分)
MP:ジャックと仲良くなる(40分)
PP2:ジャスティンのイジメ(ロッカーに写真)(86分)
分析・感想
主人公の「トリーチャーコリンズ症候群」という題材は一度あつかってみたいと思ったことがあったので興味を惹かれた作品でした。リモート分析会として、ベタなわかりやすい作品(分析しやすい作品)だろうと思っていましたが、予告から想像していたより変則的な構成をしていたので驚きました。途中からビートがほとんど機能していないため、見ていてだんだん白けてきます。「ハートウォーミング」とでもキャッチコピーをつけたくなるような、いい人ばかりがでてくる優しい話ですが、映画としてはやや偽善的にも見えてしまいます。その原因はいくつもありますが、構成の面からいうと、主人公であるはずのオギーのキャラクターアークを描ききれていないことが大きくあります。
まず、オギーのアクト2=非日常=学校生活での明確なWANTがありません。暗黙に「友達をつくる」ということだとすると、ジャックと仲良くなっていく段階(バトル)が重要になってきます。しかし理科のテスト中にカンニングさせるきっかけの後はモンタージュシーンで、仲良くなる過程が省かれ、あっという間にMPに到達してしまいます。重要なシーンを飛ばしすぎなのです(これと同じミスをしている日本の有名アニメ映画があります)。基準と比べても20分も早いタイミングです。あるいは「学校に通い続けること」というWANTだったとしたら、行きたくなくなるようなイジメを受けて、それに負けずに登校するというMPも考えられました。この映画のラストシーンは修了式なので、このWANTであれば「一年間、学校に通ったこと」に意味が出せます。何をテーマにして、どう描くかは作者が決めることですが、WANTがないことは構成として弱点です。
ジャックと仲良くなることでMPに到達したとします。すぐに状況は悪化します(フォール)。ハロウィンで聞いたジャックの悪口を真に受けてケンカを始めるのです。これはセオリー通りです。冷戦状態が続いたあと、理科の課題でペアを組むという小さな変化のあと、ゲーム上で仲直りします。このシーンは「マインクラフト」の画面上で仲直りするよりも、面と向かって話した方がいいシーンになったのは言うまでもありません。ジャックが、オギーの顔をどれだけ見つめるかという演出が意味も持つでしょう(相手をよく知りたかったら「よく見ること」というモノローグがあるぐらいですから)。理科の発表会の手作り暗室カメラもオリジナリティこそありますが、ストーリーの流れをくみとりきれていません。フリがないともいえます。トップシーンからフっている宇宙飛行士や、後半で月を眺めて「いつか行きたい」と言っているようなキャラクターに合わせた作品にするこで、もっと効果的なシーンに出来たはずです(そもそも、発表のために制作する過程などをもっとシーンとして描くことで、観客が二人の友情に感情移入されていくのですが、それすらない)。理科の作品が評価されることをMPに持ってくることも可能でした。その構成では「フォール」はイジメっこのジュリアンがイジメを開始することになりますが、実際ではPP2です。
アクト3は作品のクライマックスであり、テーマを決定づけるようなイベントを持ってくるべきですが、この映画で起きていることはどうでしょう?
オギーにとって一番の敵役であったイジメっ子のジュリアンは校長に怒られてあっさりと転校してしまい、野外学習にも参加しません。野外学習では、上級生にからまれ、ちょっとした揉み合いがあっただけであっさりと終わります。そして修了式で表彰。ビッグバトルが機能していません。
改めて、この作品の、主人公オギーのキャラクターアークを、ログライン的に言うならば「初めて学校へ行った少年が、友達をつくり、ケンカもするが、一年間を修了した」程度の話です。これが陳腐に聞こえるかもしれませんがログラインに面白さを求めるのはまちがいです。ログラインはこの程度で、いいのです。友達をつくる過程や、ケンカをして仲直りする心情などがシーンとして丁寧に描かれているかどうかが作品の「描写」です。ログラインが悪いのではなく、描写がないことが問題なのです。
では、メインストーリーであるオギーのシーンがスカスカの代わりに、どんなシーンに時間を使っているのでしょう?
アクト2に入るタイミングで、姉のヴィアのストーリーが始まっているため、オジーよりもヴィアの話にすら見えてきます。姉と弟の2本のストーリーであるとも言えなくないかもしれません。ミランダという友人と疎遠になっていることは、オジーに「学校では誰もが経験すること」と言っていることにつながります。弟の病気は遺伝子の運のようなもので、もしかしたら自分が病気になっていたかもしれないというセリフも、対比として効いています。サブプロットの定番のラブストーリーも入ってきています。2人を主人公として、全体をコントラストプロットとして描く構成もできたと思います。病気の弟ばかりが大切にされていて寂しさを感じるキャラクターも良いと思います。姉と弟の対比で描くストーリーは良い映画になったと思いますが、意識的に構成されていないのでテーマはうっすらとしか見えてきません。
この作品では姉のヴィアにくわえて「ジャック」「ミランダ」といった友人たちの章が入ります。蛇足です。ストーリーの軸となるキャラクターが増えると群像劇的な展開になっていきます。きちんとした群像劇にするのであれば、それぞれの視点によってテーマが浮かび上がってくるように構成するべきです。父親や母親のパートなども入るかもしれません。それぞれのエピソードをきちんと処理もするべきです。そうでなければ群像にする意味がないのです。ただ人物が多く出てきてごちゃごちゃしているのは群像劇ではありません。ジャック、ミランダの章はモノローグばかりで、サブプロットとして充分に処理できる程度の情報しかありません。章立てするほどではないのです。ミランダの家族問題などは最後まで無視されています(演劇の後などで母親とのもうワンシーンがあるだけで印象が変わります)。
どんな構成にするかは、作者のテーマやメッセージ次第です。何が正しいということはありません。
この作品で描きたかったことは、ラストの修了式での校長先生のセリフを受けるなら「周りの人間がオギーによって動かされた」という視点ではないかと思います。この場合、オギーをブレのない芯の強いキャラクターとして描き、周りが影響を受けて変化していくという描き方も可能でした。メシアプロットと呼んでいる型で、子どもの難病や、死期の近い主人公との相性がいいストーリータイプです。過去のこういったセオリーを避けて、明るく描こうとしたのだとしても、周りのキャラクターはオジーとの関わりの中で、つまり具体的なシーンを経て変化していくべきでした。そういったシーンが少なく、モノローグなど都合よく動きすぎています。これがチープさとも、キャラクターの偽善さとも見えます。
ハロウィン、クリスマス、野外授業など季節イベントを起こすことで時間だけは進めていますが、主人公の成長が見えません。書き慣れていない作者がテーマから逃げるために(無意識的でしょうが)、よくやってしまうのが「物語内の時間を飛ばして、事件が起きているように見せること」と「登場人物を増やして、脇役の説明、心情に時間を使うこと」です。この映画では両方をやってしまっています。主人公の成長が見えないのは、作者自身が伝えたいテーマが掘り下げられていないからかもしれません。
「トリーチャーコリンズ症候群の少年」という題材を前にして、安易に親切な世界を創りすぎているのです。病気の子どもを受け入れる社会というのは、とても「いい話」ではあるのですが、イジメっこのジュリアンが転校していなくなることで解決という展開は、異分子の排除という差別と同じ構造をもっています。このことに作り手や観客が気づかないとしたら怖いものすら感じます。これだけサブキャラキャラクターのモノローグを入れているなら、ジュリアンの章がなぜないのでしょう? あったとしたら、彼はどんな言葉を語ったでしょう? それは物語の深みにつながっていたはずです。
演技に関しては、母親役ジュリア・ロバーツの演技の巧さは言うまでもなく、父親のオーウェン・ウィルソンがとてもいい味を出していると感じました。演技は脚本にひっぱられてしまうので、主役のオギー少年は仕方ないとしても、友人になるジャック役のノア・ジュープはうまいと思いました。犬も良い演技をしていました。
緋片イルカ 2021/01/01
次回はこちら→ 三幕構成リモート分析会(#2)『女と男の観覧車』
はじめまして。リモート分析会、ひっそり参加させていただきました。
自分も、前半の、オギーが初登校から差別を受けても負けずにがんばって、ジャックとオギーが仲良くなる40分あたりまではおもしろく見ていたのですがその後の展開になんとなく失速を感じていました。その理由が的確に説明されていてスッキリしました。より効果的な描写の提案もとても参考になりました。
次回の分析会も楽しみにしております!