映画『リトル・チルドレン』(三幕構成分析#41)

リトル・チルドレン(字幕版)

ビジネスに成功した夫リチャードと3歳になる娘ルーシーと共に、専業主婦のサラ・ピアースはアメリカ・ボストン郊外の住宅街ウッドワード・コートへ引っ越してきた。娘を連れて公園デビューに挑むが、郊外の主婦たちとは肌が合わず違和感を拭えない。そんな主婦たちの目下の話題は“プロム・キング”ことブラッド・アダムソン。サラは軽いお遊びでブラッドとキスを交わすが…。(Amazon商品解説より)

スリーポインツ

分析表と合わせて後述。

感想と構成解説

印象に残るシーンがいくつかあって、個人的には、なかなか良い映画だと思っていました。

「印象に残る」というのは、それだけで物語としては意義があるのではないかと思います。

しかし、いい映画という印象ばかりで、あらすじが思い出せなくて、改めて見て納得がいきました。

構成がとても悪いのです。

いくつかのシーンが好きでも、誰が、何して、どうなる映画だったかというストーリーの印象が残っていないのです。

社会性のつよい複雑な問題を題材としながら、ラストでエンタメ映画的な解決を図ってしまっているところも、この作品の評価を下げてしまっていると思います。

初見であれば、意外な結末という意味で、驚かされる面白さはあるのですが、テーマに真摯に向き合う姿勢とはズレます。

ちなみにアカデミー賞では主演女優賞、助演男優賞、脚色賞にノミネートされたそうです。

一方で、興行成績は制作費をなんとか取り戻したという程度で、興行としては失敗でしょう。

それでも「印象に残るシーン」があった人は僕のように満足感があるのではないでしょうか。

売上げなんかとは別に、こういう物語としての部分的価値はもっと大切にされてもいいのではないかと思います。

今の時代、安易に「面白い」「つまらない」、「好き」「嫌い」で白黒つける方が好まれそうですが、良いところと悪いところをしっかり見ていくのが分析の意味だと思います。長所短所のどちらからも学べることはたくさんあります。

少し話は逸れますが、ケイト・ウィンスレットという女優についても、少し触れておきます。

タイタニック』『エターナル・サンシャイン』『愛を読むひと』などなど、代表作を挙げるまでもない有名な女優ですが、個人的には役者としての「表現力」は弱いなと感じることがあります。

一部の名俳優は、ストーリーの流れを超えて、人の感情を揺さ振る天才的な表現力を持っています。ケイト・ウィンスレットにはそこまでの表現力を感じません。もちろん、そこいらの女優よりはぜんぜん上手いです。

天才的な俳優が100点を超えるような演技をするのに比べると、ケイト・ウィンスレットは90点台だというような意味です。

けれど、彼女は物語を「読む力」にものすごく長けていると感じます。出演する作品選びが良いのです。

この『リトル・チルドレン』は映画化される前に、監督・脚本のトッド・フィールドと小説家トム・ペロッタによる原作小説がにあります(※日本語翻訳はされていないみたいです)。

ケイト・ウィンスレットが、トット監督の前作『イン・ザ・ベッドルーム』を見て、出演したいと思ったというところに「読む力」の高さを感じます(前作の『イン・ザ~』もテーマ性の高い良作です)。

役者としての自分の売り方を知っているとも言えるのかもしれません。もちろんエージェントも優秀でしょうが、最終的に出演すると決めるのは本人でしょう。

この『リトル・チルドレン』の役どころでいえば『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』には及ばないと感じたりもしますが、それでも「主演女優賞」にノミネートされるほどの役どころです。

この表現力で、評価されるのは、ストーリーが良いからだと僕は思います。

一般的に、演技と脚本の関係性は、勘違いされたり、見落とされがちです。

たいていは、良いストーリーに巡りあえた役者が、演技が巧い俳優と思われます。一回、ヒット作が出ると、別作品にも出演できますが、そこでの演技が拙くても「個性」とか「味」といった曖昧な表現で、最後は「好み」の問題に落とし込まれます。

これは、役者の演技力があっても、脚本が悪ければ引き出せないし、逆もまたしかりで、良いシーンは演技がうまいように見えるのです。

また数字で表現するなら、表現力が100ある役者も、脚本がチープでくだらなくて60ぐらいであれば、シーンの点数としては160になります。

一方、表現力が60しかなくても、脚本自体が秀逸で100あれば、シーンとして同じ160になります。

けれど、多くの人がシーンを見て、それをそのまま役者の演技力と思ってしまっているのです。

脚本の点数がわかるようになると、演技力もわかるようになります。

さきに天才的だと言ったような役者は、脚本が60点ぐらいのところで、120点ぐらいの表現をして、名シーンに仕立て上げます。

一方、脚本が100点なのに、30点ぐらいのベタな演技しかできず、せっかくのいいシーンを台無しにしている役者もいます。

ケイト・ウィンスレットの出演作に、いい映画が多いのは、彼女自身がこの脚本の点数の高い作品を選び取る能力に長けているためだと思います。

(※ケイト・ウィンスレット主演の映画『女と男の観覧車』の記事

『リトル・チルドレン』の話に戻ります。

※結末までのネタバレ含みます。

通常の映画では1人のキャラクターが、主人公として映画全体を引っ張っています。基本的な三幕構成です。ここでは『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』にならってアークプロットと呼んでもおきます。

明らかに主人公が2人いる場合、両者は対照的なテーマを抱えていて、こういう構成を僕はコントラストプロットと呼んでいます。

恋愛映画やバディものなどは、メインキャラクターが2人いて、一見すると主人公が2人に見えますが、2人のバランスが作品によって異なります。2人が主人公のようで、一方はサブキャラにしかなっていないものも多くあります。この場合、構成としては基本的なアークプロットです。

この『リトル・チルドレン』はマルチプロット(群像劇)の構成です。

マルチプロットでは、短いアークをもった主人公が複数、登場します。

たくさん人物が登場して、いろんなストーリーが入っているようなものは、一般的に「群像劇」と呼ばれます。これには明確な定義はありません。

僕もあいまいなまま「群像劇」と呼ぶことはよくありますが、この記事では、混乱を避けるため、構成上、複数主人公のプロットタイプとして「マルチプロット」という呼び方を使用します。

マルチプロットは、登場人物が多いので、分析しようとすると混乱しがちですが、メインキャラクターのアークを一人ずつ丁寧に拾っていけば、全体の構成も見えてきます。

『リトル・チルドレン』でアークをもっているキャラクターは、サラ、ブラッド、ロニー、ラリーの4人です。

この4人のストーリーが絡み合ったマルチプロットになっているのですが、分析するときには、まずは、この4人を一人ずつ分析していけばいいのです。

なお、アークがあるかを見分けるときのコツは、最初と最後で変化をしているか?という基準で探すのもよいかもしれません。

4人以外では、ブラッドの妻キャシー(ジェニファー・コネリー)と、サラの夫は、それぞれのメインシーン(そのキャラが中心のシーン)があり、重要キャラに見えますが、2人とも最後まで浮気に気付くでもなく、変化をしません。つまり、アークを持っていないサブキャラクターなのです。

この分析から、この二人のメインシーンはカットする有力候補でもあります。構成をタイトにするのであれば、無駄なシーンといえます。ただ、ムダがたくさん入れられることは物語の魅力にもなるので、安易にカットすればいいかは一概には言えません。ムダにこそ物語の面白味がでることがよくあります。

その他のキャラクターも一応、見ておきます。

サラを読書会に誘ったり、子守をしてくれるジーン、サラのママ友たち、サラの娘、ブラッドの息子、ロニーの母親などは、登場シーンは多いですが、明らかに重要キャラのシーンに登場しているだけで、扱いとしてはサブキャラです。こららのキャラがアークを持っていると思う人はいないと思いますが。

(※参考記事:『トイ・ストーリー4』から考えるキャラクターレベル5段階

では、4人のメインキャラクターについて、それぞれスリーポインツと、そこから導き出されるログラインをまとめてみます。

サラ
PP1:水着を買ってブラッドのいるプールへ
MP:読書会で語る
PP2:ブラッド夫妻と食事
アクト3:ブラッドと逃亡
ログライン:家庭生活にうんざりしていた主婦が、不倫をしてハリを取り戻していくが、逃亡計画の最中、娘の大切さに気付いて、家に帰る。

ブラッド
PP1:アメフトに誘われる
MP:アメフト仲間に認められる
PP2:サラ夫妻と食事
アクト3:サラと逃亡
ログライン:妻の尻にしかれ自尊心を失っていた男が、アメフトや不倫をして自身をとりもどしてくが、逃亡計画の最中、怪我をして、家に帰る。

ラリー(元警察官)
PP1:ロニーの家に押しかける
MP:夜中に近所迷惑
PP2:ロニーの母が倒れる
アクト3:ロニーと対面
ログライン:トラウマを克服できず生きがいを見つけられない元警察官が、性犯罪者への厭がらせをするが、新たな被害者(ロニーの母)を出してしまい、謝罪し人を助けるという新たな生きがいを見つける。

ロニー(性犯罪者)
PP1:デート
MP:相手に「いい人」と言われる
PP2:母が死ぬ
アクト3:「いい子」になれるか
ログライン:性犯罪者として差別されている男が、自立(母がいなくても生きていける生活)を目指してデートをするが、母が死んでしまい、自ら去勢する。

こんなところでしょうか。ログラインの表現には個人差が出るので、僕の文章に違和感をもつ人もいるかもしれませんが、「どういう人が、何をして、どうなった」という変化をつかむことができている文章であれば、表現は自由です。(※参考記事:ログラインを考える1「フックのある企画から」

では、以上の4本のアークが映画全体でどう配置されているかを確認していきます。

こうして全体から眺めて、映画全体としてのプロットアークを考えていきます。

マルチプロットでは、各ビートをいろんなキャラクターが担うことがよくあります。たとえばPP1はAというキャラだが、MPではBというキャラのシーンになっていて、結果的に全体としてプロットアークを作っているのです。『マグノリア』などは、ポール・トーマス・アンダーソン監督の作品は、全体が見事な三幕構成になっていたりします。

しかし、この『リトル・チルドレン』ではサラとブラッドの不倫に関するストーリーが、がっちりと軸になっているように見えます。

ラリーとロニーはPP1が遅すぎますし、ブラッドのプロットである「アメフト」はMPまでは上がっていくものの、途中から不倫やスケボーにとってかわり、映画全体で重要なプロットではありません。

結局、マルチプロットでありながら、全体を背負っているのは「サラの不倫」ばかりなのです(※なお、ブラッドの不倫シーンは、サラの受けとして登場しているシーンがほとんどで、だからラストでも、ブラッドはスケボーにかまけて来ないのです)。

これをマルチプロットではなく、サラとブラッドのロミジュリ型のプロットとして、ラリーとロニーはサブプロットが大きく膨らんだ構成ととらえても構わないと思います(※プロットの型は分析する上での参考で、型に合わせることが目的ではない)。

ちなみに、不倫ものとロミジュリ型の構成は相性がいいので、別名、不倫プロット、禁断愛プロットと呼んだりもします。

このサラとブラッドの不倫プロットがメインだとみた場合、カタリスト:17分、PP1:39分は遅すぎで、これだけでも失敗の要因といえます。見方によっては無駄なシーンが多すぎということです。

無駄とみる人にはテンポが悪い、なかなかストーリーが進まない映画に見えるでしょうし、無駄を楽しめる人は「群像劇だから」といって楽しめるでしょう。

あいまいな定義の「群像劇」ではなく、構成上のマルチプロットとしてみる場合に、問われるのは、それぞれのプロットを組み合わせる意義です。

アークが2本のコントラストプロットでは、明暗、陰陽、善悪のような主人公2人が描かれるのでテーマが明白です。

わざわざ、マルチプロットにする場合、『リトル・チルドレン』でいえば、4本ものアークを一つの映画に入れることに意味があるのか?

これが、構成として成功しているかどうかに関わります。

映画のマルチプロットでは、尺の関係から、ひとつひとつのストーリーは、主人公1人として描くよりも、必ず薄くなります。

小説であればページ数を増やして長編にすればいいだけですが、映画では長くても3時間ぐらいが限度でしょう。あとは、三部作とか、テレビシリーズにするしかありません。

この映画は、原作小説から始まっていることで、マルチプロット前提で作られてしまったのではないかというのは推測できます。

もし、この映画がサラとブラッドだけのストーリーで、ラリーとロニーのストーリーがなかったら?と想像してみてください。

余分なシーンを削って、のこった時間をどんなシーンに使えるでしょうか?

ブラッドが司法試験をサボってお泊まり旅行する話があって、旅行中のシーンはカットされていますが、サラとブラッドのストーリーであればしっかり描けます。

サラはラストで、逃避行よりも娘を選び家に帰ることを決めます。ロニーという強烈なキャラクターと出会ったことで、心の変化があったように見せていますが、演出上のごまかしです。

サラは、冒頭の公園でのシーンから、娘を邪険にしつづけています。手作りプレゼントすら無視していた彼女が、数分間、娘の姿が見えなくなっただけで、大切さを思い出すでしょうか?

仮に娘の大切を感じたとしても、そもそも、娘を連れてブラッドと逃げようとしていたのですから、「家に帰る」選択にはつながりません。

これは、記事の冒頭で書いた「エンタメ映画的な解決を図っている」と言ったものの一つです。

テーマでもある「別の人生への渇望」「不幸の生き方への拒絶」(読書会でのサラのセリフ)を求めてきたサラが、ラストで、どうして娘を選び家に帰ることにしたのかも、描かれていません。

主人公を1人に絞れば、テーマの掘り下げや、娘との交流シーンや、心の変化に対するフリのシーンをもっと濃密のストーリーが描けるのです。

トラウマから非常識な行動に走ってしまう元警察官のラリー、けっして悪魔のような犯罪者ではないが性犯罪者ゆえに差別まで受けているロニー。

この二人のストーリーも、それぞれ一本の映画が作れてしまうのは言うまでもありません。とくにロニーのストーリーはとてもフックされるものがあります。

それでも、これらを薄めてまで、一本の映画にする意味があったのか?

「リトルチルドレン」というタイトルから考えてみます。

サラの娘、ブラッドの息子、ロニーの小児愛性癖、ラリーは子供を撃って殺してしまったなど、4本のアークには子供が関連しています。

4人それぞれが、衝動を抑えきれず不倫や非常識な行動に走ってしまう大人たちが「子供のようだ」という解釈もあるかもしれません。

けれど、4本のストーリーをまとまげるキーワードとしては弱いような気がします。

「子供を守る」というキーワードではどうでしょう?

サラの、ラストでの「娘を選ぶ」という行動は「子供を守ること」を選んだと解釈できます。

ブラッドは息子に対しては、一貫して愛情を示していますので、少し微妙です。

性犯罪者のロニーは、子供を脅かす存在でありますが、ロニーの母はそんな息子を守り続けます。

母の「いい子になるように」という遺言から、ロニーは自ら去勢します。これは「子供を脅かす存在」の敗北です。

また、ラストで血まみれのロニーを病院につれていくラリーは、やはり「守る」存在です。

そもそも、ラリーは子供を守るというタテマエの元、ロニーに対する厭がらせをしていました。

「祖国の安全(Homeland Security)という言葉があり、父を亡くした息子ともぎりぎり繋がりそうです。

また、細かいところで、サラとブラッドのキスを見せまいとするママ友たちや、プールにロニーがきたときの騒ぎようなども、子供を守る行動です。ブラッドの妻キャシーの母親は電話で、金銭的援助で助けようとするシーンもあります。

映画のトップシーンとして、チクタク鳴る時計と、子供の陶器の人形が映ります(オープニングイメージ)。

これはロニーの家のもので、母が死んだあと、ロニーは衝動的に人形を破壊します。

ストーリーを全体として解釈すると(マルチプロット全体としてのログラインのように)、

「子供達を守りたいという動機から、ロニーという性犯罪者が差別している地域。そんな中、サラはむしろ子育てには興味を持てず、マイノリティ側にいるので、ママ友の性犯罪者を去勢すればいいという過激な意見に批判的です。そして、不倫という自分の欲望に忠実な行動をしていきます。このストーリーの中で、欲望に忠実なのは自慰行為にふける夫と、おなじくデート中に自慰行為をするロニー。夫は自慰で済ませているが、サラは不倫という行動に出ていきます。倫理的問題だけでなく、子供の心を傷つける可能性があるという点では、サラの不倫と、ロニーの過去の性犯罪(※公然わいせつ)は同等と言えるかも知れません。また、元警官のラリーは、勘違いとはいえ、子供を殺してしまったというトラウマを抱えています。子供を傷つけるという意味では、一番重い罪を犯しています。そのトラウマに抗うように「子供を守る会」としてロニーを排除する活動をします。それに対して、ロニーの高齢の母も、性犯罪者である我が息子を守ろうとする。また、サブプロットですが、ブラッドの妻キャシーはイラク戦争で父を亡くした子供のインタビューで心を傷めます。そんな中、ロニーの母親が死ぬという事件が起きます。これはラリーの抗議運動が引き起こしますが、それはブラッドが約束を破ってバーに現れなかったことに由来します。その原因はブラッドがサラとイチャついていたからです。本人たちは自覚していないとはいえ、サラ、ブラッド、ラリーという3人のメインキャラクターの連鎖によって、ロニーの母が死んだのです。ここで、ロニーが人形を壊すのは演出的にはナイフを持つのと合わせて、子供達へ復讐を予感させますが、子供を壊す=大人への成長を暗示しているともいえそうです。ただし、ロニーの行動は極めて幼稚な発想に基づく、自ら去勢するという行動でした。公園で泣き叫ぶロニーを目にしたサラは母性のようなものに目覚め、いなくなった娘を見つけて、家に帰ることを選択します。また、ロニーに謝罪したラリーは、同時に父親のようにロニーを病院へ運びます。この流れには一貫して「子供を守る」というテーマが共通しているように見えます。そんな中で、ちょっとズレているのがブラッドです。ブラッドは息子には優しいものの、息子を捨てて、サラの元へ行こうとした挙句、若者にスケボーに誘われて、怪我をして家にかえるという、理解しがたい行動をします。幼稚ともいえそうです。そもそもブラッドは司法試験の勉強はサボリつづけ、サラの誘惑にのって不倫を始めたり、ラリーに誘われてアメフトをしたり、優柔不断で、最後まで自立しきれていない子供といえそうです。精神的な子供のまま親になっている人がいて、そういう人間の行動が、遠回りに子供達を傷つけているともいえるのかもしれません」

僕はこの映画は好きなので、好意的に解釈してみました。それでも苦しい解釈だなと感じます。

やはり構成は、そのようになっていないからです。

この映画がマルチプロットとして失敗している一番の原因は、マルチプロットになりきれていないところだと思います。

サラの不倫が前面に出すぎているのです。それは技術的には、マルチプロットなのに、一人のキャラクターにビートを背負わせすぎていると言えます。

もっと、マルチプロットだと割り切って、魅力的なシーンをたくさん放り込めば、あれこれと観客に考えさせる余白が生まれて、深みも出たのではないかなと思います。

小説では、もっと一人一人のストーリーが濃く描かれていたのではないかと思います。

2時間強の映画に詰め込み過ぎてしまったために、ひとつひとつが薄くなってしまって、無理がでてしまった。

その上、中途半端にアークプロット寄りに構成してしまったため、どっちつかずになって失敗してしまった。そんな構成だと思います。

それでも、冒頭に書いたように「印象に残る」シーンはあります。

僕にとってはロニーがらみのシーンがとても印象的です。

・「性犯罪者に対して去勢すればいいという母親。それはやりすぎだというサラとの会話」
・「ロニーがプールに入ると、全員がいっせいにプールから上がるシーン」
・「ロニーの家に対する嫌がらせ」
・「厭がらせをしてしまうラリー側の心理」
・「性犯罪者の息子でも愛する母の優しさ」
・「性犯罪者が自ら去勢するというシーン」

プールと去勢は、他の映画でも見たことないようなシーンで、強く印象に残りました。

サラとブラッドのラブストーリーにしても、プールでオイルを塗り合うだけの関係という展開とか、洗濯室でのセックスなど、魅力的な物語を感じます。

そういうシーンに価値を見出してもいいのではないかと、僕は思います。

なにより残念なのは、トッド・フィールド監督が、この作品を機に新作を撮っていないことです(興行の失敗が大きいのでしょうか)。

ありがちななシーンをキレイに並べただけの、よくまとまった映画はたくさんありますが、印象に残るような個性的なシーンを描ける映画は貴重だと思います。いつか、トッド監督の新作を見れる日を待ちたいと思います。

緋片イルカ 2021/10/16

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