三幕構成 中級編
今週より、三幕構成の中級編と称して、より深い物語論を解説していきます。連載回数は未定です。思いつくことがある限りつづけます。
中級編の記事では、ビートを含む用語の定義や、構成の基本、キャラクターに対する基本を理解していることを前提としています。しかし、応用にいたっては基本の定義とは変わることもあります。基本はあくまで「初心者が基本を掴むための説明」であって、応用では、例外や、より深い概念を扱うので、初級での言葉の意味とは矛盾することもでてきます。
武道などでも「守」「破」「離」という考え方があります。初心者は基本のルールを「守る」こと。基本を体得した中級者はときにルールを「破って」よい。上級者は免許皆伝してルールを「離れて」独自の流派をつくっていく。中級編は三幕構成の「破」にあたります。
以上を、ふまえた上で記事をお読み下さい。
超初心者の方は、初心者向けQ&A①「そもそも三幕構成って何?」から、ある程度の知識がある方は三幕構成の作り方シリーズか、ログラインを考えるシリーズからお読みください。
なお、初級編では主に『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』を中心に不足部分を補うような考え方で進めてきました。中級編で中心になる書籍は『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』です(以降、同書を『ストーリー』と表記します)。なかなか理解しづらい本なので購入のおすすめいたしませんが、記事に引用することは多くなりますので関連する内容を参照したいときにはご利用ください。英語表記は原書からです。
ロバート・マッキーの葛藤の3レベル
『ストーリー』には葛藤には以下の3つのレベルがあると書かれています。
内的葛藤Inner Conflict
個人的葛藤Personal Confilict
非個人的葛藤Extra-Personal Conflict
同書では『クレイマー、クレイマー』の、父親であるダスティン・ホフマンがフレンチトーストを作ろうとして失敗する有名なシーンをつかって、くわしく説明されています。
男が息子に朝食を作ろうとするという単純な行為を描いているだけだが、映画史上の名シーンとなった。人生の複合的葛藤を三つ同時にかかえた男の三分間ドラマだ。
内的葛藤→女のやる仕事(フレンチトースト)ぐらいできるという自信
個人的葛藤→フレンチトーストを待っている息子の期待
非個人的葛藤→フレンチトーストという料理を作る作業
とあります。ワンシーンが、三つの階層すべてで葛藤して、すべてで敗北します。つまり、自分でも作れると思っていたフレンチトーストを作れず、自信をなくし、息子の期待を裏切り、「レストランへ行くぞ」と次のシーンへつながります。父親は仕事へ行かなくてはいけないという「タイムリミット」のカセもかかっています(ダスティン・ホフマンが腕時計を気にしています)。シーン解説については本書をお読みいただくとして、ここでは葛藤レベルの再定義をしていきます。
「外的葛藤」
ロバート・マッキーの「個人的葛藤」と「非個人的葛藤」は映像に見えるという共通点があります。そこで、目にみえるものを「外的葛藤」、見えないものを「内的葛藤」として大きく二つにくくります。シンプルでわかりやすいと思います。
まずは外的葛藤を「個人的」と「非個人的」に分ける意味があるのかを考えてみます。
そもそも、葛藤は「WANT(目的)」と「障害」によって生まれます。『クレイマークレイマー』のフレンチトーストのシーンでいえば、「フレンチトーストを作る」という目的に対して、卵や牛乳といった「食材たち」が障害となっています。これが非個人的な葛藤です。
個人的な葛藤は、息子が「フレンチトーストが食べたい」という目的をもっているの対して、父親が「作れないこと」で敗北し、結果として信頼を失います。
マッキーのいう「個人的葛藤」は「人との葛藤」と言い替えられます。「非個人的葛藤は「モノ」「人以外」と言い替えられます。
まだ「個人的」「非個人的」がつかめない方のために補足します。このシーンを変更して考えみましょう。
このシーンに息子がいなかったらどうでしょう?
たとえば息子は別の部屋で着替えをしていて、その間に父親が一人で「フレンチトースト」と葛藤している。これは「個人的葛藤」(人との葛藤)を取り払ってしまったシーンです。下手すると、大げさな演技で料理しているだけのコントのようなシーンになってしまいます。キャラクターが弱いアクション映画も同じで、CGや爆発や戦争といった派手なシーンを見せていても「非個人的」(モノ)レベルでしか葛藤していない場合はシーンとして弱くなりがちです。いまの例でいえば、隣の部屋から「パパ、シャツがない。探して」といった葛藤を重ねることはできますが、ここでは役者の顔がうつる、同じ部屋にいるシーンが感情が伝わるいいシーンになるのは言うまでもありません。
「フレンチトースト」を「目玉焼」にしてみたらどうでしょう?
油をひいてフライパンに卵を落とすだけなら、この父親にも作れるでしょう。これは「非個人的葛藤」(モノとの葛藤)を弱くした例です。強くするのであればフレンチトーストよりも高度な料理になりますが、あまりに高度な要求をされれば、作ろうとは思わず、初めからあっさりとレストランへ行ってしまうかもしれません。「非個人的葛藤」(モノとの葛藤)をなくしてしまったシーンでは、息子の「フレンチトーストを食べたい」という目的だけが残ります。買ってきてやるのか、レストランへ連れていくのかで、「食べたい」目的は簡単に達成できます。シーンとしてはかなり味気なくなりそうです。ここれから推測されるのは、息子のWANTはじつは「ママのフレンチトーストを食べたい」なのだろうということです。これは内的葛藤に関わることなので後述します。
人とモノの大きな違いは、人は感情や欲求をもっている点です。物語の機能としては「目的(WANT)」をもっているといえます。
ここが「個人的葛藤」と「非個人的葛藤」の大きな違いです。
整理すると以下になります。
「外的葛藤」
1:モノとの葛藤
2:人との葛藤
「内的葛藤」
内的葛藤は、一言でいえば「心の中での葛藤」です。
他人の心の中が見えないように、映像表現では、なるべく外的葛藤に置き換えるようにして表現します。
フレンチトーストのシーンでは「女の仕事ぐらいできる」というのが内的葛藤だそうですが、これは前のシーンで「妻が出ていったこと」や父親の男尊女卑的な性格から推測するしかありません。ワンシーンだけで、それを断定するのは主観的に陥りかねませんが、『クレイマークレイマー』という作品に関していえば、当時のウーマンリブの映画であり、その要素は作品を通して、万遍なく提示されているので、推測可能です。テーマの一つにも見えます。
このシーン内でいえば、息子に「ママはマグカップなんて使わない」と言われて、父と母を比較させるセリフがあります。これを「マグカップじゃパンが入らない」と言わせるのでは大きく違います。後者では「モノとの葛藤」レベルでのセリフでしかありませんが「ママは~」は「人との葛藤」レベルでのセリフで、さらにそこから息子の中の母親像が見え隠れすることで深みが増しています。息子のWANTは「ママのフレンチトーストが食べたい」なのです。同時に、そんな母親像を押しつけられるのが嫌で、妻=母親(ちなみに女優はメリル・ストリープ)は出ていったのかもしれない、とすら推測できるかもしれません。
内的葛藤が伝わるかどうかは、観客に寄るところは大きいとはいえ、創り手が考えているかどうかは、キャラクターの言動の節々に滲み出ます。添削などの指摘でも、この内的葛藤レベルの違いは作者自身にも伝わらないことが多くあると思います。内的葛藤を意識したセリフは深みがあるのに、意識していない人にとっては平凡に思えてしまい、また逆もしかりです。
これは、そもそもの心の仕組みをどこまで理解しているかという違いになります。
心のモデルは、様々な精神医学や心理学で提唱されています。脳の神経ネットワークで説明しようとする人もいれば、魂のような非科学的なモデルで捉えるひともいます。
そのどれもが完璧ではありませんが、ある程度の説得力があります。「魂」なんてありえないと思う人がいるかもしれませんが、それは自分が科学的見地に立ちすぎている証拠かもしれません。説明しきれないことが、世の中にはあることを切り捨ててしまうことになり、それは物語作家としては損失です(一流の科学者は想像力豊かなので、科学者にとっても損失でしょう)。読者・観客が物語に求めているものを想像すれば、わかることです。
ともかく、心のモデルは証明されていないのですから、どういったモデルに従うかは自由ですが、そのモデルが内的葛藤に関わります。
ここでは、心の「浅いレベル」「深いレベル」というモデルを使うに留めます。(より細かくはキャラクター論を参照ください。)
浅いレベルは心理学では「表層意識」や「自我」といい、感覚としては「自分でもわかる自分」
深いレベルは「潜在意識」や「無意識」で「自分でわからない自分」
と、軽く定義しておきます。(ジョハリの窓も参考になるかも)
抽象的になりがちなので、具体例でみていきましょう。以前にも使った例ですが、ダイエットをめざす女のストーリーで考えてみます。
「体重150キロの女が、痩せたいとは思っている」まず、これをWANTとします。
それに対して障害は「運動しなさい」と心配する家族(人との葛藤)や、食欲をそそる食べ物(モノとの葛藤)(街で「怪獣がいる!」と指差し笑う子どもなどのモブキャラはモノとの葛藤です)。
彼女が、一念発起してダイエットを始めるには「死」に相当するような決断や覚悟が必要であるとビート解説「デス」の記事では書きました。
医者に、このままでは病気になって「死ぬ」と言われて、とうとうダイエットを始める。
三幕構成の基本セオリーに従ってつくっていくなら、ミッドポイントでは一応の成果がでる。フォールでは、気の緩みや誘惑かられてバカ喰いしてしまい、体重がもどってしまいオールイズロストを経て、ビッグバトルでは本当のダイエットに成功して勝利。
この女性のストーリーに共感できるでしょうか?
同じような苦しみを味わったことのある方はともかく、物語としては共感しづらいと思います。
それは「内的葛藤」が弱いか見えないからです。
「物語はキャラクターの変化を描くものだ」と言われることが多くあります。もちろん主人公の変化は必須ではありませんが(「主人公は成長しなくてはいけないという思い込み」)、基本的には従っておくべき重要な要素です。三幕構成の理論を学んだ初級者は「体重が減って、頑張る力もついたから彼女は変化している」と言ったりします。一部の人が「三幕構成になれば面白い」と言ったりすることの誤りは、こういうところにあります。
この原因を作者の人生観の浅さなどで片づけることもできますが、「内的葛藤」の深いレベルを想定することで検討ができます。
「頑張ってダイエットに成功する」だけの主人公は「浅いレベル」での変化しかしていないのです。
さっきのストーリーに「深いレベル」での葛藤を加えてみます。
「体重150キロの女が、痩せたいとは思っている。けれど出来るはずがないとも思っている」
「痩せたい」というWANTは同じです。これは表層レベルでのWANTです。
「出来るはずがない」というのは「深いレベル」での思い込みが滲み出た感覚です。この一言だけで、彼女のキャラクターコアが変わります。
どうして「出来るはずがない」と思っているのでしょう?
彼女は、過去に失敗ばかりして生きてきたのです。それはおそらく体重のことだけではないはずです。
勉強もだめ、恋もだめ、愚痴を言ううちに周りの友達にも距離をおかれ、人とも社会とも疎遠になり、家にいる時間が増え、ごろごろ喰っちゃ寝するので体重が増える。体重が増えると、よけいに外に出るのが億劫になり、出れなくなる。(程度の差はあれ、似たような気持ちや体験がありませんか?)
何度か、変わろうとしたこともあったかもしれません。「今日から毎朝ジョギングをするぞ!」と始めてみるものの、三日坊主。勉強もだめだったような彼女には計画を立てたり実行する力も未熟でしょう。いきなり毎朝10キロ走るなんて目標を立てて、翌日には体を壊してしまったかもしれません。成功体験が少ないから、何かに取り組んでいくという計画を立てられないのです。
このあたりまで、掘り下げてくると、彼女の家族関係が気になってきます。
不幸な家庭環境で育ったゆえに、勉強やしつけがなされずに、こうなってしまったのか?
あるいは、彼女を愛しているあまり、過保護になってしまっているかもしれません。
後者であれば、彼女の人との葛藤は「運動しなさい」と心配する家族でなく、「無理に痩せなくていいのよ?」という優しい家族になるかもしれません(ちなみに、これは心理学でいえばグレートマザーは魔女にもなるというモデルです)。
ビートの「デス」を考えてみます。さっきの例では、医者にこのままでは安易に「死ぬ」と言われたことにしていましたが、今回の彼女ではどうでしょうか?
こんな人生だったら「べつに死んだっていい」と思ってしまうかもしれません。あたりまえですが「デス」=「死」というのはあくまでセオリーで、死ねばいいというわけではありません。「今までの弱い自分」を殺して、変わるんだと決意することがビート「デス」の本質です。
「死んだっていい」と思っている彼女を「本気でダイエットしよう」と思わせられるものは何でしょうか?
ちょっと、すぐには思いつきません。
キーとなるのは「生きたい」と思わせるものです。もう一度、人生をやり直してみよう、と思ったとき彼女は変わろうとするのです。それは誰かのためかもしれません。
そういうイベントが見つけられれば、それは「デス」として機能します。生きようと思っても「デス」なのです。ここを安易なイベントで進めてしまったら「医者に死を予告される」のと変わりません。
物語を作るというのは、主人公のことを本気で思い、その人生を背負うようなものです。作者の個性もでます。ジャンルにもよります。
どんなテーマで、どんな物語を描きたいという確固たるものがないと、三幕構成の理論を知っていたからといっても簡単には作れません。
キャラクターコアを掘り下げることができれば、この物語は「肥満女性がダイエットする話」ではなく「失敗ばかりして人生を諦めていた女性が、生きることを学び直す話」となるのです。
前者は「ダイエット」という表面的なネタしかないステレオタイプなストーリーです(いかに三幕構成になっていようとも!)。
しかし「人生」までテーマを掘り下げられればアーキタイプストーリー(archetypal story)となり、ダイエットに興味ない人でも、主人公に共感できるようになるのです。
これはキャラクターアークの本質でもあります。
「内的葛藤」
1:表層レベルの葛藤
2:深層レベルの葛藤
(補足:一人称の小説では、語り手は「表層レベル」で話しているといえます。これは「信頼できない語り手」といった議論とつながります)
プロットアークとキャラクターアーク
「内的葛藤」がキャラクターアークとなり、「外的葛藤」だけをとらえたものをプロットアークと呼びます。プロットアークはイルカの造語です。この考え方に相当する用語がないので造りました。
ダイエットの話でも「キャラクターアーク」とは別に「プロットアーク」が必要です。それは「どこで、どのようなダイエットをする」といった外的な葛藤です。ジョギングなのか、以前の記事で例に出したような「合宿」に参加させられるのか、ここも作者の個性次第です。簡単にいい案は浮かびません(本気で物語をつくるのは大変です)。
三幕構成の初心者が陥りがちなのは「キャラクターアーク」と「プロットアーク」をごちゃまぜにしたビートシートやログラインを作ってしまうことです。ブレイク・スナイダーのビートシートでも混同しています(定義はキャラクターアーク寄りですが、分析ではキャラクター以外の部分でとっていたりします)。
ビートの意義を掴んでいない学び初めであれば、それでも構わないと思います。しかし三幕構成に慣れてくるとセオリー通りには作れるようになったけれど、面白くならないという壁にぶつかります。
それはキャラクターアークの本質的な意味を考える段階にきているといえると思います。
緋片イルカ 2020/05/18
次回 → 「ストーリー価値とアーク」(中級編2)(5/25公開)