この記事は後日、推敲します。
三幕構成 中級編(まえがき)
三幕構成の中級編と称して、より深い物語論を解説しています。連載回数は未定です。思いつくことがある限りつづけます。
中級編の記事では、ビートを含む用語の定義や、構成の基本、キャラクターに対する基本を理解していることを前提としています。しかし、応用にいたっては基本の定義とは変わることもあります。基本はあくまで「初心者が基本を掴むための説明」であって、応用では、例外や、より深い概念を扱うので、初級での言葉の意味とは矛盾することもでてきます。
武道などでも「守」「破」「離」という考え方があります。初心者は基本のルールを「守る」こと。基本を体得した中級者はときにルールを「破って」よい。上級者は免許皆伝してルールを「離れて」独自の流派をつくっていく。中級編は三幕構成の「破」にあたります。
以上を、ふまえた上で記事をお読み下さい。
超初心者の方は、初心者向けQ&A①「そもそも三幕構成って何?」から、ある程度の知識がある方は三幕構成の作り方シリーズか、ログラインを考えるシリーズからお読みください。
なお、初級編では主に『SAVE THE CATの法則 本当に売れる脚本術』を中心に、不足部分を補うように進めてきました。中級編で中心になる書籍は『ストーリー ロバート・マッキーが教える物語の基本と原則』です(以降、同書を『ストーリー』と表記します)。なかなか理解しづらい本なので購入のおすすめいたしませんが、記事に引用することは多くなりますので関連する内容を参照したいときにはご利用ください。英語表記は原書からです。
観客・読者を満足させること
前回の記事ではハッピーエンド、バッドエンドという一般的な印象が、物語上では「ストーリー価値」に対するポジティブかネガティブかで決まるということを考えました。
映画の8~9割はハッピーエンドと言われますが、それは多くの人がお金を払って映画をみて、さいごはハッピーな気分になって帰りたいと思っていて、また制作側がそれに応えようとするからです。ハッピーエンドになるのは最初からほぼ決まっているとも言えます。
それに対して、ミニマムプロットと呼ばれるような芸術映画や小説(とくに文学)はこの限りではありません。割合は聞いたことありませんが、舞台では悲劇がれっきとしたジャンルとして成立しています。
強引にハッピーエンドにもっていかれると観客は丸め込まれたような印象をうけます。
ハッピーエンドありきで、未解決の問題が残っていたり、安易な解決法にキャラクター達が納得していたりするると違和感があります。バッドエンドでも同じです。せっかく、幸せに終わるかと思ったところでくだらないオチ(作者は面白いと思ってるのでしょう)が起きたりしたら、それまでの物語がすべて台無しです。
そういった不自然なエンドは、作者・製作者への不信感にもつながります。感動的な作品を鑑賞したあとはスタンディングオベーションがやみませんが、不自然なエンドにはブーイングがとぶでしょう。
物語、作者、観客の関係を考えるとき、一般的には作者が物語を提示して、提示された物語を観客がそれを受け取ると思わがちですが、現代ではこの立場は逆転しています。
物語が少なかった時代、たとえば原始時代のような焚き火を囲んで語り部の話に耳を傾けていたような時代であれば、聴衆はその物語にじっと耳を傾けて、鑑賞していたでしょう。言霊思想のように物語自体が神聖なものでしたし、語り部のようなストーリーテラーは神職でした。
貴族や武士の時代では、申楽や能のように、神的な意味合いを残しつつも、物語は富裕層の趣味となっていきます。作家が生活するにはパトロンが必要でした。民衆は生活に手一杯で、娯楽を愉しむ余裕はありませんでした。
本格的な民衆文化が成立するのは、日本でいえば江戸時代以降です。十返舎一九や滝沢馬琴といった書くことだけで生活を成り立たせる「職業作家」が登場してきます。このあたりから物語の需要と供給のバランスもかわってきます。物語の商品化が始まるのです。
一気に時間をすっとばして、現代ではどうでしょう?
本屋には新刊があふれ、小説投稿サイトには分単位で新作があげられています。物語過多の時代です。忙しい現代人はお客様です。無料の試し読みのようにこちらから宣伝してでも、読んでいただき、満足いただけたら対価をいただく。接客業のような側面すらあります。観客・読者の方でも「金を払っている」「時間を使っている」という立場から、つまらないものを容赦なく断罪します。
物語のエンドで、観客・読者を満足させるということは時代的にも重要になってきていると言えそうです。
観客・読者のなかの物語
観客・読者を満足させるということは、商業的な意味だけではありません。
鑑賞後の満足度は低いけれど、商業的に成功している作品があります。宣伝がうまいためです。ネット小説でいえば、内容はうすいけどタイトルがうまいような作品です。
自己アピールが求められがちな現代では、こういったプロデュース能力までも作家に求められがちですが、厳密にはプロデューサーや編集者の仕事です。作家はまずはいい作品を書くことに専念すべきです。そしてプロデューサーや編集者が、いい作品を見抜いて、きちんと売るべきです。
ともかく、誰もが感じるように「売上げ」と「作品の善し悪し」は一致している場合もあれば、そうでない場合があります。
それでも「良い作品」は、くり返しの鑑賞に耐えうるので、時代をこえて残りやすいと言えるでしょう。宣伝の効果は、宣伝をしている間だけだからです。
本当に「良い作品」は観客・読者を感動させて読み継がれていきます。
作品を評価される過程を、観客による就職面接のようにたとえてみましょう。
たとえば映画が始まって数分、観客はまだ暗い映画館でスクリーンを見つめる観客は面接官です。これから、どんな物語が展開されるのか、期待に胸を膨らませています。
「さあ、わくわくするような旅につれてってくれよ」
スクリーンに主人公が登場します。
「ふむふむ、こいつが主人公か。どんな奴なんだろう?」
まずは主人公に対する面接が始まります。5分もすれば評価がくだされます(「主人公のセットアップ」)
「おもしろい奴だな」
「つまらない奴だな」
印象がいまいちで、共感に失敗すると、こんな感想を持たれるでしょう。
「こいつは、カッコイイ(カワイイ)。すきだな」
「なんだ、こいつ。ムカツクな~」
好印象、悪印象。いずれせよ、観客の感情を動かすことに成功すれば、こうなるでしょう。
ちなみに物語創作の入門本では主人公に好印象を抱かせることを重視していますが、好感がすべてではありません。嫌いは好きの裏返しという言い方があるとおり、トップシーンで嫌われていればラストで好きになってもらえる可能性は高いでしょう。観客もそれを無意識に期待します。
「なんだ、こいつ。ムカツクな~(でも、これから変わってくれるんだよな? その変化を見せてくれよ)」と。
好きでも嫌いでも、観客の感情を動かして、興味を持たせることが重要です。
むしろ興味を持たれないことは嫌われるよりも問題です。
「ありがちな奴だな。他の作品でも見た気がする」
「ん~、こんなセリフ言う人間は現実にはいないだろう」
ステレオタイプなキャラクター、正論や一般論しかいわず深みのない主人公はこんな印象を持たれます。「現実にはいないだろう」という感想に対して「この人物は実在の人がモデルなんです!」と主張する作者がときどきいますが、物語では事実かどうかは問題ではありません。歴史上の人物を題材にした作品が、すべて史実通りでないことを考えればわかります。フィクションとノンフィクションのちがい、あるいはリアルとリアリティのちがいです。フィクションでは「事実かどうか」ではなく「事実らしくかんじられるかどうか」が大切なのです。
主人公という第一次審査を通過したら、つぎは本題の物語です。「カタリスト」からはじまり「PP1」、アクト2へと引き込んでいきます。
その流れがうまく作られていれば、観客は、悩んだり、頑張ったり、決断したり、勇気をだして行動する主人公に一喜一憂します。引き込まれた観客は「面接官」だったことを忘れて、物語の世界に浸ります。
「ん、ちょっと、待て、そこはおかしいんじゃないか?」
嘘やごまかしはすぐにバレます。なにせ、面接官(観客)は一人ではなく、何千、何万といるのです。気付かない人がいても、別の誰かが気付きます。指摘によって、気付いていなかった人も怒ります。
物語にリアリティが足りないと感じるとき、観客は作者よりもリアルを知っている可能性があります。
ある医師の方が「医療ドラマは嘘が多すぎて見ない」とおっしゃってました。たとえばドラマで「手術室に入ったらメスがない!」なんてトラブルが起きていたら、本物の医師からしたら「いやいや、オペでそんなミスは絶対にないから」と興ざめでしょう。
医療ドラマはリアルを伝えることが目的ではない(つまり医者を愉しませるためではない)のでリアルでなくてもいいのですが、一般の観客ですら「そんなことないだろう」と思ってしまうようなリアリティではマイナスです。
専門知識などは取材をすれば埋められる表面的な問題です。たいへんでも、それを調べるかどうかの作者の姿勢次第です。
それに比べてキャラクターの内面は本質的です。
たとえば悲惨な事故で夫と子供を失った女性がいたとします。
彼女に、やさしい近所のおばさんが「がんばって前に向きに生きないとだめだよ。人生は一度きりだよ」と励まし、女性が急に立ち直る。
こんな物語は説教くさく感じるでしょう。
ストーリーが悪いわけではありません。この手のストーリーを頭ごなしに毛嫌いする人もいるでしょうが、近所のおばさんがじっくりと時間をかけて、諦めかけた彼女をなんども励まして、少しずつ立ち直っていくというドラマは、リアリティをもってていねいに描かれてあけば、たしかに感動的なストーリーになるでしょう。
観客は、作りものの嘘くさい感動が大嫌いなのです。
重い話ほど、作者の本気度が問われます。
「ドキュメント番組で見た」程度で書くと、うすっぺらくなるのです。自身が同じ体験までしている必要はありませんが、キャラクターの本質的なコアを見つけなくては、その人物を描き切れないでしょう。取材というのは表面的な情報をあつめると同時に、コアを見つける作業でもあります。
では、この家族を失った女性が立ち直る(=ポジティブエンドにもっていく)とするなら、どう描けばいいのか?
どんな「原因(Cause)」で変化していくのか?
前置きがかなり長くなりました、これが今回のテーマです。
例にあげた「説教くさく感じる」展開は、家族を失った女性を「-10」とするなら、近所のおばさんの励ましやセリフが「+1」ぐらいで、彼女をポジティブ転化させるには数値が足りていない印象があります。だから、きれい事で説教くさく見えるのです。
このシーンを演出で、音楽や役者の泣きの演技や、カットバックで過去の想い出シーンを挟んでもダメです。いくらか付加価値はつけられてもストーリー上はごまかしでしかありません(最終的にストーリーの欠陥をごまかせるのは演出家としての能力だとは思いますが)。
では「+10」できるエピソードとは何でしょうか?
それを本気で見つけていくのが、物語を創作するという作業です。
この「原因」を考えるとき、ビートとしては「リワード(Reward)」が重要になります。
「リワード」というビート
「リワード」という言葉はヒーローズジャーニーにあります。英雄が最大の試練を乗り越えて手にする「報酬」。宝物と呼んでしまうとイメージしやすいかと思います。
モノミスでは「究極の恵み」にあたります。モノミスでの意義は、悟りの境地のようなニュアンスを含むのでより定義は広いといえます。
いずれにせよ、主人公が「行って、帰る」という「旅」の中で得てくるものです。まずは、この基本のイメージをつかんでください。
ブレイク・スナイダーの「ビートシート」には「リワード」はありません。そもそも、イルカのビートシートの発想はCATのビートを細分化したり、不足を補ったりすることがベースになっていますので、中級ではこの「リワード」もビートの一つと考えていきます(中級編での意義としての「そもそもビートって何?」ということも後日、記事にします)。
「リワード」をビートシートの位置で考えるなら「ミッドポイント」の後が一般的になります。ただし、他のビートに比べて固定というわけではありません。
たとえば「主人公のセットアップ」が「カタリスト」よりも後ろにくるなんてことはありえません。それをやると「カタリスト」のあとに改めて主人公をセットアップすることになり、「カタリスト」~「PP1」への勢いが失われてしまいます。ビートシートを知らずとも、推敲すれば気が付くようなことです。このように基本のビートシートでは順番はほぼ固定です。一部、無くすことはできますが、順番通りに使えば、多くの物語に活用できるというのが、初級編のビートシートでした。
「リワード」についても初心者向けの説明であれば「ミッドポイントの後で手に入れる宝だよ」で片づけてしまうのですが、中級編なので細かい点にも注意しながら、くわしくみていきます。
物質的リワード
これはとても単純です。ヒーローズジャーニーの「宝物」の意味で使われるような「リワード」です。桃太郎が鬼を退治して手に入れる「金銀財宝」、浦島太郎が竜宮城でもらう「玉手箱」のようなアイテムです。
それ自体に金銭的な価値があったり、特別な力をもっていたりするようなものです。
映画ではこのようなアイテムとしてのリワードが多く使われています。
物質的リワードを考えるときに、注意しなくてはいけないのが、映画特有の三幕構成です。
モノミスでは「すべての物語がすべてのビートを持っているわけではない」と考えるので「行ったきり帰ってこない物語」の形がありえます。これは浦島太郎が竜宮城から帰ってこない話、桃太郎が鬼ヶ島を制圧してそのまま暮らしてしまうような話です。民話ではこの手の「行ったきり帰ってこない物語」がありますが、現代の映画では、観客に受け入れられません。(参考:がっつり分析『浦島太郎』、がっつり分析『桃太郎』、がっつり分析『星の銀貨』)
すると、この「宝物」を構成上のどこで手にいれるかという問題が生じます。
さきにあげた一般的な「リワード」の位置=「ミッドポイント」のあとに配置する場合、このリワードは本物の宝ではない場合があります。これがミッドポイントは「偽りの勝利(False Victory)」と呼ばれる要因になります。ミッドポイントで手に入れた「宝物」は偽物で、本当の「宝物」はアクト3のクライマックスで手に入れるのです。こうしないと、ミッドポイント以降が物語上、無意味になってしまいます。つまり、目的は達成したのに、だらだらと長いエピローグが続いているような構成になってしまうのです。この型をパターンAとします。
パターンBの構成では、ミッドポイントでは「宝物」を手に入れず、アクト3のクライマックスでのみ「手に入れる」という構成にします。ミッドポイントは宝物を手に入れるための旅の途中でしかなく「PP1=旅の出発、PP2=旅の終わり」という初級編での三幕構成のセオリーがくずれます。アクション映画では、この手の構成が多くあります。『インディ・ジョーンズ/クリスタル・スカルの王国』のような映画では、宝物を手に入れることが目的なので、ミッドポイントで手に入れるわけにはいかないのです。すると、ミッドポイントで何をしているかというと、プロットアークとして演出的な盛りあがり(つまり派手なアクション)を入れています。これは実は「行ったきり帰ってこない物語」を演出で三幕構成にしているだけなのです。映画特有の三幕構成とはこのことです(※このあたりの違いが初心者の方には意味分からないと思います。)
情報的リワード
情報的リワードのわかりやすい例はミステリーにおける「宝」は「真相」です。ただし、その「真相」がデータになっていてメモリーチップなどに入っていれば情報が物質的になりますし、メモや手紙のようなものであれば紙なのでやはり物質的です。純粋な情報的リワードは人から教えられた「ヒント」や「秘密の暗号」のような、物質でなくてもいいというだけで、物語上の役割としては「物質的リワード」と変わりません。
「探偵プロット」ではミッドポイントで謎を解くための重要なヒントを得て、「フォール」で真犯人が顔をだします。
またパターンBとして説明したラストで「宝物」を得るパターンの構成であれば、その宝物を入手するための重要なヒント(たとえば宝物のある洞窟の地図など)を得ていることもあります。
ちなみに「登場人物たちが価値あるものとして扱い、それを得ようと争っているが観客には何なのかは明かされない」ものを「マクガフィン」と呼びます。専門用語っぽいですが、機能としてはどうということはありません。うまく使われていれば効果的ですが、たんに作者の怠慢、説明不足であるだけの場合もあります。マクガフィンは「物理的」あるいは「情報的」リワードの一種に過ぎません。
状況改善リワード
「状況が良くなった状態」をリワードとして捉えます。ここからは「宝物」には見えないかもしれませんが、機能としては同じなのでビート上では「リワード」として捉えます(ビートで重要なのは用語や定義ではなく機能です)。
「メシアプロット」と僕が呼んでいるタイプのストーリーでは「状況改善」が「リワード」として機能します。
メシアとはキリストのような自己犠牲による救済者。ガンジーやキング牧師、『マトリックス』のネオのようなタイプのキャラクターです。自分を犠牲にしてでも社会や状況を改善させようとする英雄型の主人公です。
「メシアプロット」では、最終的に社会の改善と引き換えに主人公が死んでしまうことが多いのですが、生き残ったまま改善しハッピーエンドを迎える「改革プロット」でも、同じようなリワードがあります。「改革プロット」とは、たとえばダメなスポーツチームに新しいコーチ(改革者)がやってくるとか(例はたくさんあるが『マネーボール』とか。「アンダードッグプロット」と呼んだりもします))、さいきんは少なくなった気がしますが、テレビドラマで、問題を多く抱えた学校にスーパー教師がやってきて、改革を起こしていくようなストーリーです。
このタイプではPP1以降、主人公が改善・改革に努力してきた結果が実り、ミッドポイント以降で、その状況が改善します。これが「リワード」となります。(パウロのような回心者がいれば、それもリワードと呼べます)。
「状況改善」というのは「改革」の途中段階でしかありません。映画特有の構成でもあるので、とうぜん「偽りの勝利(False Victory)」として機能します。「フォール」以降、うまくいっていた歯車がまた狂い始めます(ユダのような裏切り者がでるかもしれません)。
スポーツものの改革プロットでは、主人公が過去に失敗やトラウマを抱えたりしていて、自身のキャラクターアークを持っている場合も多くあります(過去に「自分のせいでチームが負けた」と思っているとか)。この場合、チームを再生させるだけでなく、自身も再生していきます。「リワード」としては「状況改善」=「チームの勝利」(優勝ではなく一回戦勝利とか、絶対負けると思っていた相手に勝つとか、そんなエピソードがミッドポイントにきます。これがアンダードッグという呼び方の由来です)、それと同時に主人公は「仲間や自分を信じる」という教訓を得ます(これは「教訓的リワード」なので後述)。
ここまでの「物質的」「情報的」「状況改善」リワードは、外的な「宝物」といえます。
主人公が「リワード」を得て、物語をポジティブエンド(ハッピーエンド)になる原因があるとしたら「諦めず、求め続けたこと」です。
アクション映画ではもちろん宝を追求し、ミステリーでは謎を解くことを諦めず、メシアプロットでは改革を諦めなかったことです。それゆえ、ポジティブエンドを迎えらるのです。
この努力や苦労がないまま、たまたま勝利を手にしていたら、観客は興ざめします。
人間関係でのリワード
中級編1回目の記事(「葛藤のレベルとアーク」)で葛藤を外的と内的にわけましたが、上記3つのリワードは外的の「モノとの葛藤」に相当します。ここからは「内的な葛藤」話になっていきます。
外的と内的の、中間に位置するのが、人間関係の葛藤でした。
人間関係でリワード(宝物、報酬)として他者から得るものは「信頼」や「愛情」といった感情です。内的なものは映画ではとくに表現しづらいので、行動や動作、セリフといった目に見えるものに置き換えて表現するしかないとも話しました。
人間関係でのリワードを、物質的に置き換えると、たとえば「恋人からのプレゼント」とか「トロフィーのような勝利の証」といったものになります。花でもアクセサリーのような小道具でも、想い出の写真でもかまいませんが、モノとして残ります。物質的リワードとの違いは、これらのモノは本人以外にはあまり価値がない、個人的なリワードであるということです(クリスタルスカルのように誰もそのモノを盗もうとはしない)。
これらのリワードはメインプロットでもサブプロットでも得ることがあります。キャラクターがしっかり描かれているアクションでは、プロットアークとしての物質的リワードを追いながらも、サブプロットで個人的なリワード(多くはラブ)も得ています。
メインプロットとして据える場合は「ロミジュリプロット」や「バディプロット」となることが多くあります。(参考:「三幕構成と恋愛(プロットタイプとストーリータイプの違い)」)
MP付近で、キスやベッドシーンが入ったり、それまでいがみあっていた相棒に弱音を吐いたり、個人的な過去を告白したりといったシーンが入ります。
これらの「信頼」や「愛情」というリワードが、アクト3でポジティブエンドとなる原因となります。MPでこのリワードを得ているかどうかが、オールイズロストで失ったあと、取りもどすための「ビッグバトル」に本気で入っていけるかどうかにつながります。
ラブストーリーで、俗っぽく言ってしまえば「その恋人を取りもどしたいほどの本気の、『真実の愛』なのか?」というかんじです。
キャラクターアークの中に「リワード」がビートとして機能していない場合、アクト3で恋人を追いかける主人公は執着しているストーカーに見える危険もあります。
反対に『真実の愛』を得ていながら、追いかけず受け入れようとしている主人公は、腰抜けに見えます。どちらも観客の不満につながります。
物語の力学として「リワード」が「エンド」とつながっている証拠です。
三幕構成を形式的に当てはめている場合、主人公はプロットの要求に動かされてしまいます(これが作者のご都合主義です)。プロットの都合で動かされている主人公は人間より、人形に見えます。映画だし、まあいいかと大目に見てくれる観客もいます(大人が子供向けアニメだからしょうがないという感覚に似てる)。許してくれても、感動はしないでしょう。感動しなければ、口コミもしませんし、語り継がれもしません。
主人公がアクト2で本物のリワードを得ていれば、プロット(ストーリー)の要求には従いません。
「オールイズロスト」で、観客も「それはしょうがないよね。それはさすがに、もうムリだよね」という絶望的な状況に陥っても、主人公だけは諦めずに再挑戦しようとします。その姿にこそ、観客は心を打たれて「どうなるのか、見届けたい」と手に汗にぎり、「がんばれ!」と応援したくなるのです。「ビッグバトル」の結果、敗北したとしても、観客は諦めなかった主人公を暖かく見守るでしょう(この場合はネガティブエンドでも観客は満足するでしょう)。
教訓的リワード
このリワードを理解するのはジム・キャリーのコメディがわかりやすい例です。CATのストーリータイプでいえば「魔法のランプ Out of the Bottle」というストーリータイプに関連しています(要はジム・キャリーがこのストーリータイプの映画に出演が多いということなのですが)。
主人公はアクト2を通して「嘘をついてはいけない」(『ライアー・ライアー』)というような、倫理的な教訓を学びます。
その教訓はシンプルで、多くの人は反論しないような当たり前の教訓です。主人公はその教訓を学ばなくてはいけないほど、歪んでいるところから始まります。これは主人公を「いい人」に描いて登場時に好感を抱いてもらわなくてもいい例の一つでもあります。主人公との距離感が笑いの条件でもあるので、コメディ作品に多くありますが、他にもあります。殺し屋が「人を守ること」を学んだり、ワガママな金持ちが「人に親切にする」ことを学んだりするなどです。
主人公の中で起きている変化は、内的ですが、スタート地点が歪んでいたため、その変化が見えやすいのです(だからあえて物質的に描かなくても伝わるのです)。
この変化の結果として、人の信頼(「人間関係でのリワード」)を得ていくこともありますし、信頼されることで価値観が変化していくこともあります。
「キャラクターの変化や成長」は「内的なリワードを得る旅」とも言い替えられるのです。(参考:『恋愛小説家』は自身と人間関係と両方で変化を起こそうと闘う名作ラブストーリーです)
とうぜん「内的リワード」は「偽りの勝利(False Victory)」などではありません。
深層的リワード
内的な葛藤に、表層レベルと深層レベルがあったように、変化でもやはり浅い深いがあるといえます。
内的で、深くなればなるほど抽象的になるので、主観的になってしまいますが、深層レベルでのリワードも想定しておきます。
深いレベルでの心の変化は、変われるかどうかもわからないような闘いです。ときに「運命」や「神」といった、人間より高次元な存在との闘いになることもあります。
この「リワード」を得る旅は、神から火を盗むプロメテウスのような危険な旅ともいえます。
それゆえ、この「旅」だけで一本のキャラクターアークとなります。
さきに例にあげた「悲惨な事故で夫と子供を失った女性の再生」のようなストーリーです。物語自体に「絶望した人間は再生などできるのか?」というような問いかけがあります。
「-10」となった状態をどうやって回復するのか。
近所のおばさんが口うるさく世話をやき、うっとうしく感じていた主人公が「どうして、あなたはそんなに私なんかつきまとうのか」と怒り、それでも諦めないおばさんを少しだけ信頼するようになる。
けれど「こんな風に人と話したのは久しぶりだった」と気がついたりする。
結果的には「-9」ぐらいにしか持っていけないかもしれないが、それでもポジティブ転化したら、物語のスタート地点よりはハッピーなエンドとえいえるでしょう。
そこでリワードとなったものはおばさんの親切心だけでなく、おばさんの側でもそうせざるを得ないような事情があったでしょう。二人を巡り合わせたものは何だったのか?などと想定したときには、そこには言葉にはできないような「リワード」が潜んでいると言えるかもしれません(無意識的なものは、そもそも言語化できないのです)。
しかし、このアークは抽象的になり、伝わりづらくなり、一部の観客には理解すらされないミニマムプロットとなり、興行的にも成功しづらいと言われます。
まとめ
今回は、回り道が多くて、説明が長くなってしまいましたが、まとめると、ハッピーエンドになるにはなるだけの原因、バッドエンドになるにはなるだけの原因があるのだということです。それをあいまいにしたまま、ハッピーやバッドにするのは観客に不満を抱かせます。その原因をビートとして捉えるときには「リワード」という観点がとても重要である。
今回の内容をまとめると、そんなかんじです。
緋片イルカ 2020/06/03
200610推敲
〆切前のため一週おやすみします。次回は6/22更新予定。→「ビートの本質」(6/22公開)